新版 歎異抄 現代語訳付き

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

弥陀の本願は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を救ってくださるため―親鸞没後、その教えにそむいた、さまざまな異説が発生し、信者を混乱におとしいれた状況を歎いた著者が、師匠親鸞の教えを正しく伝えるべく、直接見聞した親鸞の発言と行動を思い出しながら書き綴った『歎異抄』。日本仏教史の権威が、真の読み方を解き明かし、現代人のニーズに合わせた読みやすい現代語訳を付した決定版。

 有名だし短い本だけどまとめて読むのははじめて。前々からいつか読もうと思っていたけど、ようやく読めた。
 原文の各条のあとに要旨として、あるいは解説で、各条がどういう意図や背景があってそのようなことが書かれたかということが説明されているのはありがたい。
 例えば第二条には、親鸞が帰京した後に東国で異義が発生しそれを説得するために息子の善鸞を派遣したが、彼も親鸞から自分ひとりが秘かに教わったものとして異義を説いた。その事件の時に本書の執筆者とされる唯円らが親鸞の真意を尋ねるために上京して、そのときに親鸞が話したこと(浄土に生まれるためには、ただ阿弥陀仏の救いを信じて念仏する以外なく、特別の手立てはないこと)が書かれているという説明がされる。
 個人的には、やっぱり第二条の『念仏は、本当に浄土に生まれるたねなのか、あるいは地獄におちる行いなのか、わたしにはまったくわかりません。もしかりに法然聖人にだまされて、念仏して地獄におちたとしても、わたしはすこしも後悔はいたしません。それは、念仏以外の行をはげんで、仏になることのできる身でありながら、念仏したために地獄におちたということであれば、法然聖人にだまされたという後悔もおこりましょう。しかし、どのような行も満足に修めることのできない愚かな私ですから、地獄以外に行くところはありません。』(P78。現代語訳)というところは好きだな。
 ちなみに、この後には阿弥陀の願い、釈迦の教え、善導の解釈、それに基づいた法然の教えがいつわりと思わないし、そうであるならば親鸞が説くところも無意味でない。それが私の信心で、それを聴いた上で信心を信じるも捨てるも各人の心のままになされよ。と続く。
 そして有名な「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は第三条に出てくる。
 善人は自分の努力で善い行いを積み重ねて浄土に行こうとして、阿弥陀さまの力にすがろうとしないが、そういう人でも自分の善行に頼むことをやめて阿弥陀様の力にすがれば浄土へ生まれることができる。阿弥陀さまはもともと欲望を捨て去ることのできない人間を哀れに思って、私たち(悪人)を助けようと願いを起こされた。その阿弥陀さまにすがる悪人がまず阿弥陀さまによって浄土に生まれることができる。自力で浄土に行こうとした善人も阿弥陀さまは救うのだから、阿弥陀さまを信ずる欲を捨てられない者(悪人)であれば当然阿弥陀さまは救ってくださる。冒頭の言葉が有名な第三条はそういったことが書かれる。
 第五条は、当時死んだ人のために念仏する風習が盛んだったが、親鸞は亡き父母のために念仏したことはない。なぜならば生きとし生けるものは全て生死を繰り返してきた中で父母や兄弟姉妹ともなった存在で、父母を救うことは全ての命あるものを救うこととなる。それに念仏は自分の善行でなく、阿弥陀仏からのたまわりものなので、人に分け与えられない。だから、機縁ある人々を助けることができるのは死後浄土に生まれ、悟って、仏になってからのことと話されている。
 第十三条。「怖畏罪悪」の異義、阿弥陀の本願で罪深いものでも救われるからといって罪悪を怖れない、本願ぼこりは往生できないとする考え。この考えは「専修賢善」の異義からでたもので、専修賢善とは念仏だけでなく、多くの念仏を唱えたり、善行を念仏の助けにして、その功徳で浄土に生まれることを願うもの。第十三条では専修賢善の人の念仏に自力を加える考えを批判し、善行も悪行もすぜてはさまざまな縁によるもので思いのままにならないから、ただ阿弥陀の本願力を頼み奉ること以外にてだてのないことが書かれる。