庶民たちの平安京

庶民たちの平安京 (角川選書)

庶民たちの平安京 (角川選書)

内容(「BOOK」データベースより)

これまで、貴族の視点からのみ論じられてきた平安京。しかし、人口の大半を占めていたのは、貴族たちに仕える庶民たちである。彼らは貴族の供をして宮廷に出入りし、儀式を見物するばかりでなく、炊事、造酒、機織、あるいは鳥や魚の調達等、さまざまな職掌に励んでいた。なかでも牛飼童は副業で運送業をしていたのだ。当時の記録類を駆使して庶民生活を明らかにし、王朝時代の大都市の実像を初めて描き出す。


 kindleで読了。
 平安時代の京での貴族以外の庶民の生活の一端を知ることができたのは興味深く面白かった。平安時代の宮廷以外の部分について少しばかり想像できるようになる。そうやって同じ時代の色々な階層だったり場所での生活の違いについての知識を得ることで、その時代が面白く見えてくるよね。
 当時の平安京は10万から20万の人々が暮らしていた。その人々のほとんどは庶民であり、またその多くが『さまざまな種類の従者として貴族たちに仕えていた男女であり、そのような貴族家によって養われていた老人や子供であったろう。』こうした当時の平安京は『朝廷を運営する貴族たちが集まり住むためだけに造られた、産業とは全く無縁の都市』だったので、多くが貴族の従者やあるいは朝廷の官司(官庁)が雇っている者たちとその家族という指摘は目からうろこ。
 歴史物語「大鏡」の既述から、貴族の私邸に仕える庶民の少年従者は元服するときに貴族の邸宅でその儀式が行われて、主家の貴族から成人男性としての名前を貰うものだったのかもしれないという話も面白いな。
 五位までが貴族という印象が強いから『正六位上の位階を持つ人々までもが、下級貴族としてではあれ、貴族層の一員と見なされるべき存在になっていった。』というのは失念していた。
 平安京の庶民たちは、庶民同士でも敬語を用いていた。身分の高い人の所作を真似るというのはいつの時代でもあるが、この時代でもある。そのため驚くべきことではないかもしれないが、平安時代は宮廷とそれ以外の落差激しいという印象が強いということもあって、この時代の庶民はなんとなく粗野なイメージがあったのでわずかに意外性を感じた。
 貴族の従者は主家の貴族に手厚い庇護、時には超法規的な庇護を期待できた。それと同時にその主家に背いたときには苛烈な罰を受ける。
 また『王朝時代においては、貴族家の従者が何らかの罪を犯した場合、その従者を捕らえて検非違使による裁きを受けさせるべきは、検非違使ではなく、問題の従者を召し使う貴族であった。』
 当時、東大寺の雑色(従者)の四割近くが女性だったというのは、寺だというのに意外。そして東大寺の雑色、職掌(担当の役職)があるのが半分ほどで残りの半分は適宜さまざまな雑用をこなす人々。
 左京四条以北は高級住宅地になっていて、上流貴族たちの大邸宅が立ち並んでいた。そうしたところに庶民たちの小屋があって、暮らしていた人々がいた。それは何故かというと、主家の貴族が自邸の周辺に宿舎群としてそうした小屋を用意して、自家の従者たちを住まわせていたから。土地が高そうな場所に市井の人々が住んでいたりするのは何故だろうと以前から疑問に思っていたが、そういう理由があったのか。
 また朝廷が職人や兵士や下働きの下部として雇っている庶民の宿舎も同じように大内裏近くの高級住宅地に宿舎(小屋)があった。
 『続日本後紀』で838年に陰陽寮で働く人の宿舎をたてるときに朝廷が準備した土地は一戸当たり40平方メートルで、そこから『共有の作業場や通路となる面積と炊事や洗濯や沐浴や排泄に必要な庭の面積』が引かれると床面積20平方メートル(12畳)となる。また『左経記』などの長元元年の火事の記事から二町に五百軒の家が並んでいたことがわかり、そのうち半分は少数の貴族の邸宅だろうから、一町に五百軒あったと考えたら1つの家あたりの床面積10平方メートル(六畳強)ほどしかない。そうした小さな家が王朝貴族から小屋・小家・小宅等と呼ばれた。
 王朝時代は庶民層も姓を持っていた。それが地方在住の者でもそうだったが、牛飼童は姓を持っていなかった(公式の場で本来の姓名を用いることができなかった)。
 本書冒頭の内裏での行事中に闖入してきた悪戯な庶民たちの少なからぬ部分は、京在住の庶民の多くが貴族の従者や朝廷の雇われ人であったことからもわかるように、従者として上級貴族などに仕えた人々。