ドン・カズムッホ

ドン・カズムッホ (光文社古典新訳文庫)

ドン・カズムッホ (光文社古典新訳文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

「いつもいっしょ…」「こっそりと…」「もし二人が恋仲にでもなったら…」彼女は視線をゆっくり上げ、わたしたちは互いにみつめあった…。みずみずしい描写で語られる愛と友情、波瀾万丈の物語。小説史上まれにみる魅力的なヒロインが、こんなところに隠れていた。美少女と美少年、美しくせつない「恋」と「疑惑」の物語…偏屈卿と呼ばれた男の、数奇な?自叙伝?ブラジル文学の頂点。ブラジル文学第2弾!

 kindleで読了。1章が数ページと短く区切られていることもあってさくさくと読み進めることができた。ネタバレあり。
 ドン・カズムッホ(偏屈卿)というあだ名のある登場人物の回想録形式の恋愛小説。
 恋についての物語。初恋の人で結婚相手でもあったカピトゥとの物語を綴った作品。子供時代の話が中心。
 二人が14、5歳だった1857年の11月の出来事から物語は始まる。食客であるジョゼ・ジアスが、ベンチーニョ(子供時代のドン・カズムッホ)とカピトゥの仲が怪しいとベンチーニョの母ドナ・グロリアに話し、家格が違うから彼女と深い仲になる前にベンチーニョ(ドン・カズムッホ)が生まれる前にした願掛けを守って神学校に入れることを勧めているのを立ち聞きしてしまった。その出来事から基本的には時系列に進む回想が始まる。
 召命もなく、最近話題にあがらなかったので普通に俗世の学校へ行くものだと思っていたベンチーニョは気が動転した。また、彼はそれまではカピトゥに恋情を抱いているという意識はなかった。しかし立ち聞きした食客殿の懸念を聞いて、記録を掘り返してみると彼女が自分への恋情をほのめかしたような言葉を口にしたことを思い出し、今更その意味を知り、そして自分も自覚はなかったが最近彼女を意識していたことを気づく。ベンチーニョは自分が彼女を愛していたこと、彼女に愛されていたことを知った。彼はその事実にとても嬉しくなり、それを好ましからず思って母に忠告したジョゼ・ジアズを赦した。彼のその言葉がその素晴らしい真実を明らかにし、自覚させてくれたのだから。
 しかしそしてその感動を抱いたまま、カピトゥに会いに行く。そしてこの対面で互いに愛し合っていることが改めて互いに伝わる。そして彼女にその話のことを伝えて、善後策を練る。そしてその話を持ち出した当のジョゼ・ジアスを味方にすることをアドバイスされる。そしてその後彼が神学校に行かないためにする二人は協力して事態に当たって、上手くいかずに少しピリピリしたり、仲を深めたりする。
 結局一度神学校に入ってみて、それで召命がないのであれば神学校を辞めるということを事前に取り決めるという次善の策でこの問題は決着する。
 そうしていやいや入った神学校だったが、そこで彼の無二の親友となるエスコバールと出会う。
 そして17歳の時に神学校を辞めることになり、その頃には彼は美男子となっていた。そして22歳で法学士となり家に戻ってくる。そしてベント(ベンチーニョ)はカピトゥと結婚する。
 友人のエスコバールはカピトゥの友人であるサンシャと結婚していて、その後も4人は長く友人同士であった。
 やがて若くしてエスコバールは海で泳いでいるときに死亡してしまった。その直前に彼の妻サンシャに長い付き合いでそれまで一度もそんなことなかったのに、女性としてみてしまった。
 そのこともあってかエスコバールの死に対するカピトゥの反応を見て、彼は元々妻に嫉妬深い性質だったということもあって、妻がエスコバールと秘かに関係があったのではないかという疑いが大きくなってしまう。
 そして息子のエゼキエルがその疑惑を裏付けるようにエスコバールに似ていたことで、彼の中でその疑念が確信へと変わった。その疑念を一人、胸に抱えていく中で回想録を書いている現在のドン・カズムッホ(偏屈卿)的な人間に変化していく。
 そして一度は毒薬をエゼキエルに飲ませようとしたが、直前で思いとどまった。そして彼はカピトゥにエゼキエルは俺の子供じゃないといって別れることを伝える、カピトゥはエスコバールに似ているのは単なる偶然だと述べたが、その否定の言葉もベントの心を変えさせなかった。
 そしてカピトゥとエゼキエルをスイスへ送り、そこで生活させて別居状態になった。青年となったエゼキエルが彼のもとに来て、成長した息子はやはりエスコバールと似ていた。しかし彼は子供の頃と同じように父を慕い、愛している。父がかつて自分を殺しかけたことも、母と別居状態になった理由も知らず、一念に父を慕っている。そして死した母カピトゥがベントに恨み言を言わず、最期まで彼を褒めていたことを伝えられた。
 そしてこの愛すべき若者も1年後に死亡することになる。そしてこの回想録は終わる。

 「解説」を読むと、出版後60年はカピトゥの姦通は自明なものとして捕らえられていたが、英語翻訳するときに翻訳者へレン・コードウェルはカピトゥの不義は「冤罪」であるという説を発表すると、冤罪説が支配的になった。そして現在はどちらにも取れる両義性がこの小説の特徴とされているようだ。
 それを読んでドン・カズムッホは「信頼できない語り手」だったか、そう思えば嫉妬深いことや偏屈卿と呼ばれていることなど、たしかに不義の疑念が嫉妬による思い込みなのかもしれないとも思う。ただ、息子エゼキエルがエスコバール似だったのは偶然かと片付けられるかというのもあるから、どちらとも取れるということなのだろうが。
 しかし最初に少年時代にカピトゥへの愛を自覚していなかったように、実は疑念が疑念でしかないことを、回想録を書いている時点では無意識に感じているのではないか。あるいは完全に白だという確信はなくとも、この回想録に両義的に見える含みがあるならば、彼自身もどちらともとりかねると思っていたのではないか。まあ、なんとなくそう思った程度で根拠なんかないのでけれど。
 53章までが神学校に行くまで、それから100章までが神学校入学、中退、大学をでるまでの話で、101章以降が妻と親友へ嫌疑を向けてからの話。大体3分割できるようになっているが『それぞれに流れた時間となると、数ヶ月、七年、約三十年と、がぜん不均衡になる』。
 それからジョゼ・ジアズのアグレガード(食客)という立場は、支配階級と奴隷の間の立場として当時あって(ということは、そうした立場がそれなりに一般的で)、作者本人もかつてはその立場だった。