イブン=ハルドゥーン

イブン=ハルドゥーン (講談社学術文庫)

イブン=ハルドゥーン (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

十四世紀のチュニスに生まれ、政治家として栄達と失脚を繰り返すなかで独自の「文明の学問」を拓いたイブン=ハルドゥーン。文明と王権はいかにして崩壊するのか、都会と田舎の格差はなぜ広がるのか、歴史の動因となる「連帯意識」とは―。イスラーム世界にとどまらない普遍性と警句に満ちた主著『歴史序説』の抄訳と、波瀾の生涯。

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 イブン=ハルドゥーン(西暦1332〜1406)はその著作「歴史序説」(実は「歴史」という大著の歴史の法則など歴史哲学について書いている最初の7分の1が切り離されて読まれているもの)において歴史(文明・社会・経済)の法則性があることを述べた。そうした社会の変化などには普遍的な法則があることを論じた先駆的人物。
 19世紀半ばに彼の代表的著作「歴史序説」の仏語訳ができ、それを読んだ当時の欧米の学者たちは『ヨーロッパ人が最初に発見したものと信じていた歴史哲学や社会学や経済学の諸法則が、すでに十四世紀のイブン=ハルドゥーンによって論じられ、その多くが解明されていたことを知って、彼らは驚異と感嘆の声をあげたのである。』
 そうした偉大な学者、歴史哲学者であるが机上の学者ではなく、多くの王朝で高位を得た有能な政治家でもある。
 彼が「歴史序説」にて語っているもの『「連帯意識」の理論、国家の生成、発展と興亡に関する理論、文明の本質についての考察』(N1960あたり)あるいは経済や教育についてなど。

 この本は四部構成となっており、最初の「1 イブン=ハルドゥーンの思想」で彼の思想の主たる特徴を簡潔に紹介している。その後に「2 イブン=ハルドゥーンの生涯」で彼の生涯、伝記が書かれている。そして「3 イブン=ハルドゥーンの著作―『歴史序説』」で彼の著作で最も高名な「歴史序説」の主要部が抄録されている。さらに最後の「4 後世への影響」では彼の学説が与えた影響、結局彼の理論を深める後継者が現れず孤立した天才で終わった。その後彼の著作は16〜19世紀のオスマン朝の学者政治家が深い理解を示して盛んに読まれるようになったことなどが書かれている。

 「1 イブン=ハルドゥーンの思想」
 イブンハルドゥーンは時代によって社会が変わることに気づき、そしてなぜそうした変化が起こるのだろうと思い歴史書を紐解いた。しかしそのことに対する答えは載っていなかった。そのため新しい方法論で史料批判し史実を探って、歴史の法則を発見しようと務めた。

 イブン=ハルドゥーンが説明した社会一般についての3つの前提。
 第一に人間が生存するのに社会的結合は必要な不可欠で、その社会的結合つまり相互扶助で十分な食物を得られる。一方で動物と同様に闘争して相手を屈服させようとする性質がある。そして闘争を防ぎ互いを守るためには調停者・抑制者が必要であり、その抑制者が行使する権利が王権。そうして人間の性質から王権の必要性を説明する。
 第二には地理的環境が人間集団に与える影響がある。そのため、各社会集団の性格の違いは気候や生活様式のような環境因子に左右されて生まれる。
 第三の前提は人間の理性を超えた超自然的知覚能力の存在の肯定だが、これは預言の正当性を主張するもの。
 田舎(西アジア北アフリカの田舎は草原や砂漠で遊牧民が暮らす)、それも砂漠のような厳しい環境のもとだと個人的な資質だけでは自分を守ったり、目的を追求することは難しい。それを可能にしているのが、集団を形成する人々の間で互いに協力する連帯意識である。そして彼はこのような「連帯意識」を社会的結合の基本的な絆とする。連帯意識は血縁集団だけでなく、主従関係や盟約関係でも認められる。
 そして彼によると連帯集団はたいてい複合した構造を持つ。たとえば血縁集団の場合、広い意味での血縁で一つの集団を作っているが、その内部にはまたより結合性の強い親族集団が存在している。この連帯集団が一つにまとまるためには、内部にあるここの連帯集団を統一する指導権が必要となる。そのような指導権は、連帯集団の中の特定の中核集団の中でもっとも支配的なものが持ち、それが受け継がれる。『そうすれば、その支配能力によって指導性を集団構成員に徹底することができる。一方個々の連帯集団は、もし指導者をめぐる連帯意識が非常にまさったものであることを感ずると、いきおいこれに服従することを認める。』(N330あたり)

 社会集団は置かれている環境が厳しいほど互いに協力し合う連帯意識を強く持つ。そのため野蛮な民族ほど支配権獲得や王権の拡大の可能性は大きい。しかし、その統治は必ずしも成功するわけではないと政治の重要性も書いている。
 個々の集団をまとめる広範な集団が一つの集団にまとまるためには指導権が必要。それによって統率が取れて、一つの集団であることができる。しかし単純に個々の集団からの服従を得ただけでは、個々の集団構成員に対する強制を行使するような権力はない。そのため指導者はその権威・職責に見合った、拘束力や強制統治権を求めるようになる。そして王権が誕生する。

 富はどこから生まれるのか。人は一人で生活必需品を得られないので、協業する必要がある。その協業作業で需要以上のものを生み出せるので剰余労働力が生まれ、それこそが富の源泉である。そうイブン=ハルドゥーンは説明する。
 田舎など文明力の低いところは、人口が少なく協業度合いも低くなる。そのため富の源泉である剰余労働力も少ない。一方都会では人口が多いため剰余労働力も多く、その余剰労働力は奢侈や富のために使われる。ある地方の住民が富裕であるのもそのような理屈である。
 『このように、イブン=ハルドゥーンは人間の生産活動における労働の役割を非常に重要視する。所得についても同様で、それは人間の労働力が生み出した価値量であるという。この観点から彼は「たいていの場合、労働力が加えられたという事実は、はっきりしていて、多かれ少なかれ[商品の]価値の一部は労働が占めている」と述べ、商品の価値の原因をそこに費やされた労働に求める。そして商品は「労働の価値」を媒介として交換されるのであり、さらにはこのような労働の価値によって権威も交換の対象となるという。』(N450あたり)こうした考え現代的で驚く。
 彼の考える国民の経済活動と国家。税負担低ければ労働意欲が刺激され、経済が活発に動いて個人の所得も増えて、課税も増える。そのため税負担を提げることで税収は上がる。彼のそうした理論が現在でも当てはまるかどうかはともかく、現代でもそうした理論が一つの有力な立場にあることを思えば、14世紀でこの考えにいたっているのは凄い。

 「2 イブン=ハルドゥーンの生涯」
 彼は一流の政治家にして、策謀家でもあった。また、彼の生まれ育った彼が生まれ育った西方イスラーム世界(エジプト以西の北アフリカマグリブやスペイン)は、『戦国時代の様相を呈して』いたこともあって、いくつもの国で官職につくことになる。そうした波乱万丈の生涯を送った彼の伝記。
 この彼の伝記を読むことでで、当時の西方イスラーム世界についての情報を知ることができた。個人的にはほとんど知らない話ばかりでどれも面白かったが、特にマムルーク朝の話や当時スペインではその地のイスラム諸邦がキリスト教カスティーリャ王ペドロに従属した状態で、ある程度安定しているみたいな状況だったという話が興味深い。

 彼が19歳のとき、チュニスのハフス朝で初めて官職を得る。その後マーリン朝のスルタンのもとに身を置く。しかし1357年24歳のときに陰謀(領地が占領され人質として首都にいたアブー=アブドッラーを領地に戻してその地位を復させて、自分は執権につくというもの)が発覚して2年弱獄中の人になる。
 その後スルタンの死で釈放される。このスルタンの死後のマリーン朝は『支配者は宰相の単なる傀儡にすぎず、全権は宰相によって行使された。それはまた、宮廷を取り巻く世界が自分の意のままに王位継承者を育てようとする小物政治家たちの温床と化すことを意味していた。高位貴族たちは、それぞれ自分に都合のよい候補者を王族のなかから選び、その人物をスルタン位に即けようと画策し運動した。実はイブン=ハルドゥーン自身が、この権力争奪ドラマに積極的に参加しているのである。彼はこのような政治上の策謀にたけており、誰にもひけを取らぬ腕をもっていたようである。イブン=ハルドゥーンは晩年になって、彼を不運に陥れ、たびたび住家を変えるもととなった「陰謀」について、しばしば不満を漏らしているが、そうした彼に対する陰謀は、じつは イブン=ハルドゥーン自身による陰謀への対応策だったと認められよう。』(N1070あたり)

 そうして彼は運動してアブー=サーリムをスルタンに立てたものの思ったほどの人物でなく、権力の中枢から離れる。そして2年後にそのスルタンがクーデターで殺される。そして友人が新スルタンとなったので高位が与えられるものと期待したが思ったほどの地位が得られず、友人との関係が冷えた。そして彼はスペインへと渡った。
 彼はグラナダナスル朝の王から厚い信頼を得る。そのときに修好使節としてカスティーリャ王ペドロと対面した。ペドロに仕える医者がイブン=ハルドゥーンとその先祖のことを教えていた。そのためペドロは先祖の土地を与えるから自分に仕えないかとスカウトをしたが、その申し出をイブン=ハルドゥーンは断る。
 彼はナスル朝のスルタンと親しくなった。しかしイブン=ハルドゥーンも尊敬していた有能な宰相イブン=アルハティーブがイブン=ハルドゥーンがスルタンに教えて、しようとしていることは国の安泰を損なうことを考え、彼が自発的にグラナダから去るように仕向けた。

 そんなときにペジャーヤの太守アブー=アブドッラー(件の陰謀で捕らえられたときに、領地に戻して主としようとした人)から『ハフス朝の一国ペジャーヤ』に執権として招かれたのでスペインを去る。しかしアブー=アブドッラーが敗死したことで執権生活も1年2ヶ月で終わることになる。
 イブン=ハルドゥーンが持っていた野心。北アフリカに統一した強い王朝を作って、安定した政治と文明の復興する国家の建設して、その国で実験ある地位に着くこと。
 彼は執権をしたことで支配者が賢明な人物でなくとも、洞察力のある忠告者が補佐すれば次善の統治が可能と思っていたが、そうならなかった。そのことで『少なくとも今度の失敗は、自分が改革できるとさえ考えてきた現実の社会そのものについての理解が不十分だったことを証明した。』(N1536あたり)そのため悶々と考えていた。
 そして北アフリカのような政治の安定しなさの原因についての関心が高まり、学問の世界へ入ろうとした。しかし彼は既に一流の政治家であり策謀家として知られていたので、北アフリカ中の複雑な政治情勢は彼が在野であることを許さなかった。そのため幕営に入らないかと誘われたザイヤーン朝スルタンのアブー=ハンムーのために働き、その後マリーン朝のために働くことになる。その後フェスで一旦落ち着くも、安定を求めて混迷した北アフリカから離れてスペインへ再び赴く。しかし10年前に親交を深めたスルタンが暴君となっていて、数ヵ月後スペインから追放された。
 その後に彼は親しかったアラブ遊牧民ズグバ族の一支族の支配地で、ようやく政治から離れて身を落ち着かせることができて、4年間の充実した日々を送り、その間に著述に励んだ。そしてこの時に彼のもっとも有名な著作である「歴史序説」を書き上げる。彼はこの本で新しい学問をつくったと自負していた。実際彼は先行者もなく、独力で社会の諸法則を発見し一つの学問を築き上げた。

 その後望郷の念が強まった彼は故郷チュニスに26年ぶり帰る。しかし彼が話す新しい学問が現実をあまりに言い当てているため警戒されるようになる。
 そのため故郷を去り、エジプト・カイロへ赴くことになる。当時彼の名声はカイロにもかなり広まっていたので、カイロ到着して数日後に学者や学生たちが講義をしてくれと頼みに来る。そして『宗教と学問の伝道アズハル大学で講義を行うことになった。』そしてエジプトでカムヒーヤ学院教授に任命された。また彼はこの地で大法官に6度就任することになる。一時ティムールの庇護下に置かれることになったりもしたが、彼はカイロでその生涯を終えた。