維新の夢 渡辺京二コレクション1 史論

内容(「BOOK」データベースより)

『逝きし世の面影』の著者渡辺京二は、日本近代史の考察に、生活民の意識を対置し、一石を投じてきた思想家である。その眼差しは表層のジャーナリズムが消費する言説の対極にある。本巻には、西欧的な市民社会の論理では割り切ることのできない、大衆の生活意識にわだかまる「ナショナル」なものを追求した「ナショナリズムの暗底」、明治国家への最大の抵抗者としての西郷隆盛を常識的定説から救抜する「逆説としての明治十年戦争」、北一輝と日本近代の基本的逆説の関連を問う「北一輝問題」など、日本近代史を根底から捉え返すことを試みた論考を集成する。

 外来の近代資本制市民社会は契約と合理により利害調整の体系であり、だまし得だまされ損にもなる社会であった。そうした近代社会に違和感を覚える村落・下町共同体に属する民衆(基層民)。そうした人々が持つ昔ながらの道徳が正義の世界と近代市民社会との衝突、そして近代資制市民社会と格闘した思想家や行動者たちについて描かれる。
 とても面白く、色々と新たな知見を得ることができた。
 三章構成で『1章は日本近代に登場した思想家について独特の解釈を述べた論考、2章は明治十年戦争(西南戦争)に関するもの、3章は昭和の逆説、と分類される。』昭和の逆説は天皇が国民統合のシンボルであったために、天皇が国政に口出しすることができなかったことを指す。

 ○基層民が感じた近代市民社会への違和感。法と道徳に関する観念。
 村落や下町的な共同体に属する基層民は道徳的な善悪は顧慮されない『「契約」と「合理性」を原理とする利害の体系、すなわち資本制市民社会』(P15-6)になじめなかった。
 江戸期までは道徳に基礎がおかれて、罪と悪は善悪の観念と結合していたから理解できた。しかし近代の法制度、裁判制度は利害調整の制度で善悪の観念と結合していないので理解しがたく、だまし得だまされ損にもなるその体系は『わが国の共同体的住民の自然的道徳的な法意識』(P17)的には受け入れがたいものだった。

 欧米人が『ルールをめぐってありとあらゆるきわどいゲームを試みてやまないのは、そのルールを道徳的な虚偽として軽んじているからではなくて、実はそのようなルールを唯一の社会的準拠として信頼しているからであること、したがってそのルールをいつ破り棄てても良心と抵触することのないような擬制とみなすのは、彼らにとって驚きと憤激をよびおこさずにはいない暴挙であること、これらの市民社会的法意識の機微を大多数の日本人はどうしても理解することができなかった。日本人の眼からすれば国際的なそれもふくめて市民社会における法と契約とは、たしかに現世利害にまつわる取り引きを規制していはいるが、いったん人間の良心ないし徳性や、人間の真実と善に対する永遠の観念に照らすならば、いつ何どきでも破り棄ててかまわないような、あるいは破り棄てることこそが道徳的勇気であるような擬制にすぎなかった。それは中世的な法感覚であって、フリッツ・ケルンの次のような叙述を見れば我々は、このような法意識が何も”東海の君子国”独自のものではなくて、ヨーロッパ中世を支配する正当であったことを知るだろう。』(「維新の夢 渡辺京二コレクション1 史論」P481-2)

 ○日本近代の逆説
 近代天皇制は『実体として利害の体系である市民社会を志向しながら、幻想として共同体的な正義が貫徹されてあるものと擬制しなければならぬというこの絶対矛盾は、わが近代史をつらぬく基本的逆説となった。』(P19)
 西郷隆盛の『同体的中世的な価値感覚が、まさに建設の緒についた利害の体系としての資本社会の構造と根本的に背馳するものであったからこそ、彼はわが近代史上もっとも壮大な敗北者となったのである。しかもわが近代史の逆説は、そのような反乱的敗北者である西郷を、近代天皇制にとってのもっとも理想的な人格として救抜せねばならぬところにあざやかにあらわれていた。』(P19)

 国家に対する『名もなき庶民たちの「義勇公ニ奉」ずる熱誠は、(中略)近代的ナショナリズムなどというのには遠い、部落共同体に対する古風な義務感であったということができる。たとえば村落が洪水なら洪水に見舞われて一村水没の危機に遭遇した時、川堤に俵を積む義務から逃げるものがあればそれは最悪の卑劣漢である。ほかの悪徳は許されてもこの悪徳は許されない。』(P48)
 『明治国家とは国家規模に拡大された共同体であるという天皇制的擬制は、庶民意識におけるこのような国家と村落共同体の短絡に支えられてこそその機能を全面的に働かせることができたのだった。しかしこの順調はながくはつづかなかった。逆流はほぼ大正の中期にはじまった。(中略)それは村落の共同性をもってそのまま国家の共同体を類推することができるような調和の基礎が、進展する市民社会的現実によって掘り崩されたことを意味している。天皇制共同体国家という擬制に対する観念的昂進は、村落共同体ないし下町共同体という現実の媒介が崩落あるいは変質して、市民社会的現実のなかに基層生活民が個として投げ出されることによって生じたのである。彼はそのなかで依然として共同性の幻を追い続けるとすれば、いまや媒介を欠いて個として天皇に直通するほかなかった。昭和前期の右翼的狂乱の心理的基礎はかくしてつくり出されたのである。』(P49)
 『誤解をおそれずに断定すれば、戦争へとなだれうつ基層生活民の欲求は、彼らのあらゆる欲求の中で最も本質的に人間らしい美しい欲求であった。ただ彼らはそれを政治的に表現しようとするとき、中間イデオローグの媒介と収奪をまぬかれることができなかった。近代天皇制国家には、支配エリートが天皇イデオロギーを基層生活民になげかけ、それにもとづいて培養された基層生活民の天皇制的共同体幻想が中間イデオローグに思想的発条を提供し、中間イデオローグはそれを右翼ナショナリズムイデオロギーに変形して支配エリートを脅迫するという、基本的円環が存在した。』(P53)

横井小楠
 横井小楠実学という言葉から連想されるイメージとは違い、国家は道義を根幹におくべきという観念を持っていた。彼にとっての国家は天理としての道義を基礎においたものであり、あくまで国家は道義を実現する機構である。
 彼は幕末での西洋との交渉について、東洋的仁義の理論で説けば理解するはずという楽観を持っていた。そしてその道理な主張が通らなければ戦をして『天下有志者正気の下に敗死』(P256)することで、その姿を見て、後に続くものが続々現れるだろうとしている。『熊本敬神党(神風連)の師父とされる林櫻園はこれとそっくり同じことを語っている。』(P257)
 彼の儒学的普遍主義、道義的国家という理想は西郷隆盛とも共有されている。
 そして『彼らにとって近代国民国家とは、現実にそうであるような近代世界システム内の利己的なプレイヤーなどではなく、同義的地球世界を実現する一個の道具だったからである。私は彼らの思想に過大な意味を読み込むものではないが、彼らが国家というものに道義の実現を託したナイーヴな姿勢には心うたずにはおれない。』(P243)

西郷隆盛の抱える暗さ
 『西郷は明治政府の大官中、ただひとり生き残った安政期以来の志士であった。』(P306)
 寺田屋事件で同じ薩摩藩の人間によって殺された志士たち。『西郷は政治家として慎重かつ現実的な人であるから、激派の計画を暴挙と考えていた。しかし一方彼は、妻子を捨てて「死地の兵」となった志士たちに強いシンパシーを持たずにはおれなかった。』(P345)
 それ故に『西郷は寺田屋の討手である奈良原繁や大山綱良、久光について有馬らを見捨てた海江田や堀を、表面はともかく、心底では再び許すことがなかったと考えられる。』(P309)そのため板挟みとなった大久保の立場に同情はしても、ここで彼らを見捨てたことで一番大切にするものが違うことを悟っただろう。
 そして『彼は同志を殺される経験をたびたび積み重ねるなかで、革命者というのはかならず革命後樹立される権力によって裏切られるものだという強烈な強迫観念を抱くようになった。(中略)つまり彼の中には、維新の死者、流刑された自己、倒幕革命兵士という三位一体的観念が存在していて、「犠牛」とはこの観念を具象化するイメージなのであった。』(P376)

西郷隆盛の国家像
 西郷は留守政府の首班として近代化を容認していたように、単純に近代化を嫌っていたわけではない。しかし彼の考え、目指した近代国家は明治や現代の国家像とは趣が異なるものだった。
 西郷の考えていた国家道義的国家であり、共同体農民の国家。低い税をとり、西欧文明の利器や産業の導入は漸進的で、税の大部分を軍を作るのにまわして防備するという国。
 彼が島流しの時に見た民の姿。『大地の片隅でひっそりと誰ひとり知られずに過ごされる一生、天意はまさにこのような生と合致し、革命はまさにそのような基底のうえに立ってのみ義であると彼には感じられた。維新後の悲劇の後半生は、このような彼の覚醒のうちにはらまれたのである。(中略)一八六二(文久二)年にいったん異界の人となり、南島のもっとも下降したところに現れる生の位相を見た西郷にとって、そのなかで培われた原基的な夢と、現実の政治はあまりに落差がありすぎたのだ。朋友は何のために死に、政治は何のためにあるか。そこで暮らしている自分が「今人」ではなくて「古人」のように思われてくるような、反政治的反権力的な世界、政治も革命もそのためにあるのではないか。しかし、そういう世界を希求しても、それは日本の目下の政治的必要にはあまりにも遠い、西郷は自分が見てしまった世界にてこずったのだといってよい。』(「維新の夢 渡辺京二コレクション1 史論」P348)そうした共同体がとても重要で、守るべきものと感じた。
 帰郷後に築いた鹿児島の西郷政権は門閥の領地を削り、兵たちの領地を増やして、士族内での平等を達した。そうして彼らを農業に従事させることで『彼は革命派兵士のコミューンと、基本的な民としての農民のコミューンとが矛盾なく共存でき、さらには一体化できるような世界を夢見ていたのであろう。西郷の政治的過誤や思想的な限界をいうのはやさしい。だが私は彼の一生を痛感して、文久二年にひとたび死者たちとともに異界の人となった個の人物が、維新革命後このような革命兵士と農民のコミューンを仮定しないでは生きられなかったことを、水が地に浸みとおるように自然に納得するのである。』(「維新の夢 渡辺京二コレクション1 史論」P327-8)

 『彼が考えていた国家は、基本的に共同体農民の国家である。彼は地租改革を歓迎し、地元鹿児島での実地に協力した。しかし彼の考えていた地租改正は、ブルジョワ的な土地所有の実現をめざす政府のそれとは本質的に異なっていた。彼はこの改革を通じて、鹿児島の門割制度の中に保存されてきた土地共有の「美風」を強化しようとしたのである。西郷はいっさいのブルジョワ的所有を嫌った。彼は生産と結び付いた小農民の土地保有、それも理想には村落共同体的所有を、全力をあげて擁護しようとした。共同体的所有を理想としたのは、それが地主的所有の肥大への防波堤となりうるからである。彼は土地兼併を心から嫌った。(中略)彼の考える国家は、そのような小農民に課す十分の一ないし二十分の一の田租を財政的基礎とする、簡素で安上がりな国家だった。彼は近代というものを、人間的道義の全面的実現と考えていた。文明の利器はあくまで、その実現に奉仕するものだった。だから、彼は西欧文明の利器・産業の導入を急ぐ必要はないとした。つまり彼のとろうとする政策は、小農民経済の上に立つ漸進的な近代化、いわば低成長主義であった。
 そんなことで、万国対峙のなかで国家は生き延びられるのか。西郷はできると考えた。そのために二つの対策を考えた。ひとつは予算の大部分を軍事費につぎこむことである。ふたつは国民をことごとく兵とすることである。士族の存在がそこで理由づけられた。今日の農民をただちに兵とすることはできない。無為徒食してきた士族こそ、さしあたり国民保護兵たるべきである。しかし士族は、長年のあいだに培ってきた人民蔑視、無為徒食の劣性を洗い流さねばならない。その方法はただ一つ、みずから土地を耕すことである。かくして西郷はみずから直農の範を垂れ、私学校生とに土地を与えて農耕させようとした。これは俗にいう屯田兵の構想であるが、実はその構想のなかには、兵士のコミューンと農民のコミューンをやがてひとつのものとしたい西郷の翹望がかくされていたことを見るべきである。私学校とは、西郷にとって第二維新をめざす革命兵士のコミューンであるとともに、そのなかで士族の劣性を洗い流す農業コミューンでもあった。結局彼は兵農一致に立つコミューン国家を構想したのであって、その意味で毛沢東主義のかくれた先駆者ということができる。』(P355−6)

○戦争前夜の日本。
 昭和前期にはアメリカ大使のグル―に共感をもたらす責任ある支配エリートが居た。しかしその一方で右翼的仮想をまとった革命的気運もあった。当時の日本にはその二つの顔があった。
 そして『グル―によってその開明性を称賛されたこの国の全エスタブリッシュメントの問題(中略)彼らは基層社会の底辺から噴出する欲求が、軍部や右翼イデオローグの誘導によって排外ナショナリズムの仮想をまとったとき、これを理解するすべも、これに語りかける言葉も知らなかったのである。日本のひとつの貌は、グル―がおどろいたようにもうひとつの日本の貌と徹底して存在的な他者であったために、いったんそれが身をもたげるときが来れば、ただ周章し嫌悪し慨歎することしかできなかった。』(P464)

 戦争という憑き物は近代の支配エリートの憑き物ではなく、基層民とその基層からのインパクトを受ける中間イデオローグの憑き物だった。支配エリートは民衆の『排外主義的熱狂の背後に革命の幻影を見ていたのである。』(P40)そして当然ながら昭和天皇もそう考える支配エリート階級の一人である。
 天皇というもともとは『共同体的遺制に封鎖された基層民を統合するためのシムボルであったはずのものが、基層民の欲求を奇怪に変形して吸いあげるサイフォンの役割を果しはじめた。(中略)/天皇のシムボル的機能がこのような逆流を開始したとき、支配エリートたちはそれを抑止すべき天皇の国政的機能があまりに無力なのにわれながら驚愕したことであろう。』(P45)

 『重臣グループの天皇に対する期待は国内の政治動向にかかわらぬ中立的存在たることにあった。なぜ彼は政治的に中立であらねばならぬのか。もちろん国家統合の基軸たるためであって、もし彼がみずからの政治的判断をあらわにして国内の政治動向の一方に加担すれば、天皇制国家の統合は大袈裟にいえばその瞬間に分解するものと彼らは信じたのである。彼らは一方では天皇の意向が中国大陸における軍部の暴走をチェックしてくれることを期待しながら、現実に天皇が軍部抑制の意志を示すべく乗り出そうとすると、そのことが軍部の反感を恐れて今度は天皇のチェックをしなければならなかった。(中略)彼らは天皇と軍部が決定的に対立することをおそれたのであって、なぜそれが彼らの恐怖であるかというと、そのような決定的対立を公然化することは、統合の基軸としての天皇の存在的意味を根底から破壊するものと彼らには考えられたからである。』(P449-50)
 天皇は彼が象徴している天皇制共同体を達成してくれる存在として熱狂的に信じられていて、そんな中で支配エリートと同じく資本制市民社会的な視点にある天皇に発言させて革命の危機を生むよりも時流に流されていくことを選んでしまったということかな?