ガルシア=マルケス全短編

ガルシア=マルケス全短編

ガルシア=マルケス全短編

内容紹介

「死」や「夢」など根源的な主題を実験的手法で描き、溢れんばかりの活力を小説に甦らせたコロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの短篇全集。「青犬の目」「ママ・グランデの葬儀」「純真なエレンディラと非情な祖母の信じ難くも悲惨な物語」と題されてまとめられた初期・中期・後期の3つの短篇集所収の26編を収録。巻末の詳細な「作品解題」とあいまって、この作家の誕生から円熟にいたるまでの足跡をつぶさにたどることができる。
(amazon より)


 最初の短編(1947年)から1972年までの四半世紀に発表されたほぼすべての短編、26の短編が収録されている。それでも1948年の「トゥバール・カインは星をつくる」は何故か収録されていないそうだが。
 収録作の中で個人的に特に面白かったのは「六時の女」。あとは「火曜日の昼寝」や「善人ブラカマン、奇跡の行商人」とかもいいね。
 最後の作品解題で、各短編1作ごとのテーマだとかそれまでの短編と比べてどういう変化があるかなどについての簡単な解説がなされているのはとてもありがたい。

 「第三のあきらめ」子供時代から植物人間状態となっている青年の内面を描いた短編。
 そして死亡後もその精神が肉体から離れてていかずに、感覚もあるようで、腐敗する死体と共にある苦痛が書かれる。そして埋葬される段になって、まだ死んでいないと思って今までの死を受け入れていた感情を一転させ、早すぎた埋葬に恐怖を覚える。しかしそれは夢で、夢から醒めると今度はせめて臭いがひどくならないときに埋葬をと思うようになる。

 最初期の『「第三のあきらめ」から「鏡との対話」までの四作品は、「死」をテーマに、異常な感情にとらわれた主人公の主観的・内的な視点を通して語られるという点で同一線上にあると言えよう。しかし、主人公の状態に関しては、死者→精神的存在→夢の中の人間→眠りから覚めた人間へと変化していく。それにつれて、作品が展開される舞台も意識だけの病的空間から動きのある日常生活がのぞく世界へと移行している。』(「ガルシア=マルケス全短編」N5080あたり)初期は習作という感じで、似たパターンなので連続で読むのはちょっと辛さあるな。

 「三人の夢遊病者」解題によると姉と思しき『彼女』。「笑わないよ」と宣言してその通りにして、その次に「ここに座ったままでいるよ」と宣言してその通りにする。そうして宣言していきながら、徐々に衰えていくというのが印象的。
 『前期四作品からの作風の転換点(中略)語り口に関しては、冗漫な傾向が認められる全四作に比べ、的確さが増し、ことさらに醜悪さを強調するような表現も見当たらない。<僕たち>の諦念が底流にある清澄な文体は、まるでメルヘン的な絵のように独自の死的世界を創出している。』(N5088あたり)

 「六時の女」この短編集の中で一番好き。レストランを舞台にした、店の主人のホセと彼が惚れている毎日六時にこの店に来る女(娼婦)の二人の会話劇。その二人の駆け引きが面白い。
 ホセは毎日彼女に食事をおごっている。彼女が文なしだというので、それの真偽は問わず、ただおごりおごられている。そして彼女は毎日男と出ていくという日々であった。
 今日も彼女は六時に来た。しかし彼女は、今日は六時の十五分前に来たと唐突に告げる。
 何があったかは言わず、そう何度か言うことで、彼女は彼にそう「証言」してほしいのだと読者は察する。しかしホセはあなたは酔っているんだと言いながら、冗談口をたたく彼に少しいら立つ。
 そしてあんたに惚れているといったホセに、彼女は本当に惚れているのかと念を押す。それに対してホセはぞっこんに惚れているから、寝ない(商売で、金を払って相手とならない)のだと話す。
 それに思わず笑う彼女。さすがにむっとするホセ。
 しかし彼女はホセを見て表情を変えて、商売の相手を殺したいと思っているとまでいったホセに、それなら『もし、あたしがそいつを殺したとしたら、あんた、あたしを守ってくれるってわけね?』(N1010あたり)と尋ねる。
 そこで事をなんとなく察するホセ。
 そして彼女はあたしのために嘘をついて欲しいと頼む。六時十五分前に来たと。
 事の重大さになかなか決心がつかないホセ。それにいら立つ彼女、明日ここから立つというのに何にも言ってくれなかったねと言う。
 そういわれたことで、本当に遠くへ行くのだと感じて更に悩む。
 結局その交渉がどうなったのかは微妙なまま終わる。ただ、このままだと押し切られそうな予感はぷんぷんするけれど。
 解題に『客観的に事実を述べる報道記事のような直截簡明な文体』(N5110あたり)とあるけど、「予告された殺人の記録」を読んだ時も思ったけど、やっぱり個人的にはガルシア=マルケスの小説は、幻想的な作品よりもこうした文体の作品の方が好みだな。
 「火曜日の昼寝」泥棒に入って殺された男の墓まで遠いところまで出かけて、そして堂々とそのことを名のって弔いをするその男の母と妹。
 母は人を飢えさせることにはなる泥棒はしてはいけないといっていたが、金銭に窮しての泥棒でそれをすることで人を飢えさせることにはならない泥棒だったのだから、別に息子を恥じなていない。その教えは守っていた、息子は最低限守らなければいけないものはしっかりと分別がついていたし、いい子だったと後ろ指を指されることになった今でも恥じていない母の強さ。
 泥棒の遺族が来たと知った村の人々による好奇の目にさらされても、それを気にせずに堂々と墓参りをする。そうして何も恥じることないと振舞うことで、息子への愛の深さと彼への誇りが示される。
 しかし解題にあったけど、「百年の孤独」にその泥棒が撃ち殺された挿話があるのか。
 「この村に泥棒はいない」金に窮して玉突き(ビリヤード)屋に泥棒に入った男。しかし金が小銭しかなく、ただ玉だけ盗んで帰る。金はなくとも一種の冒険の証として玉を持ち帰ってきたダマソだったが、それならいっそ何も盗まなければよかったという妻アナ。そのビリヤード店の店主は実際は盗まれていないのに大金(なのか、紙幣価値がよくわからないからわからないけど)盗まれたと官警に申し出る。そして罪なき人が逮捕されて、玉突き屋がその後寂れっぱなしなので玉を返しに行こうとする。その姿を店主に見咎められる。悪いことをしたが最終的に善意で返却に行ったダマソだったが、当の店主から金は盗まずに玉だけ盗んだなんて誰が信用するのかといわれて、店主はダマソから逆に金を巻き上げようとする。
 「ママ・グランデの葬儀」マコンドの地主というか実質領主で、長い間その地を支配してきたママ・グランデの死亡時の出来事が書かれる。彼女の写真が20の頃のものしかなく、新聞はそれで死亡記事を書いて、その美しさにママ・グランデフィーバーが起こって、葬式は想像をはるかに越える大イベントとなる。
 「世界で最も美しい溺死体」ある村に大きな身体の非常に美しい男の溺死体が流れ着いた。その美しさが色々と人々の想像を誘い、生前は縁もゆかりもない人物であったが、村の人々は彼はエステバンという名前だと信じて、そう呼び、彼に親しみを持ち、愛すべき人物であったろうその人物を悼む。
 「善人ブラカマン、奇跡の行商人」父親に売られて、はったりを利かせて、奇跡的な品を討ったり見世物をしたりする行商人についていくことになった語り手。そこで彼はその行商人悪人ブラカマンに虐待を受けながら遍歴することになる。そうした虐待で危うく死に掛けているときに彼は、癒しの奇跡の力を得る。彼のその力を使って、悪人ブラカマンは商売をする。そのうち悪人ブラカマンは自分の命を危機に瀕させて、それを癒すというパフォーマンスを行ったとき、語り手はその能力で生涯ただ一度の失敗をする。そして盛大な葬儀を挙げてやったが、墓に入った後に復讐で彼を生き返らせる。そして彼は善人ブラカマンとなり各地を歩き癒しの力で人々を癒しながら、その地に来たときには悪人ブラカマンが再び死んでいるとそいつを墓の中で生き返らせるということを繰り返して長年の恨みを晴らしている。