御曹司たちの王朝時代

御曹司たちの王朝時代 (角川選書)

御曹司たちの王朝時代 (角川選書)

内容(「BOOK」データベースより)

光源氏の友人たちも、こんな感じに生きていたのだろうか。王朝時代に実在した名門貴族家の御曹司たちが関わった24通の手紙からは、宮中の職務をさぼったいいわけ、関白邸での待ち合わせの約束、遊興への参加の強要、仲間外れへの恐怖など、華麗な王朝イメージとは違った人間くさい暮らしぶりがかいまみられる。優雅な人柄と思われがちな御曹司たちの実像を描き出した試み。


 kindleで読了。
 「雲州消息」という王朝時代に編纂された当時の上流・中流貴族たちの間で交わされた手紙が収録された書簡集から、そこに収録されている多くの手紙が現代語訳(原文と読み下し文もある)にして紹介されている。現代語訳してくれているのは、とてもありがたい。そして 手紙ごとに当時の物事(官職や習慣)などの説明や手紙の解説がされているので読みやすいし、手紙を書いた人の個性も見えて面白い。
 平安時代の名門貴族の御曹司の手紙を見ながら、当時の彼らにはどういう気苦労や楽しみがあったかなどが書かれる。
 非常に優雅で、苦悩とは縁遠くイメージされることのある王朝貴族だが、彼らは貴族であるとともに、官人でもあった。そのため宮仕えであるが故の悲喜こもごもや喜怒哀楽があった。そうした人間らしい悩みや気苦労、そして楽しみなどが書かれている。

 「源氏物語では大臣家の御曹司だったが、この絵中量を持して受領になった明石入道は変わりものと扱われているが、現実世界では右大臣藤原実資の子藤原資頼権大納言藤原行成が受領として受領(中級貴族)として生きる道を選んだように、名門貴族家出身で公卿(上級貴族)の道でなく、受領の道を選ぶ人も珍しい存在はないとのこと。
 公卿は受領と私的な主従関係を持つことでその経済力を高い水準に保つことができた。受領は公卿に富を提供したのは権力者による保護を期待してのものである。そのため将来性のない公卿であると、受領とそうした関係を結べず、公卿は名ばかりで困窮することもあったようだ。
 歌会で疲労された和歌は参加されていなかった人々にも批評されることになる。そのため拙い歌を披露してその後肩身が狭くなることを防ぐために代作を頼むこともあった。
 そのように王朝貴族はそうしたことや、暗黙の振興のルールによる交友、交遊の煩わしさなどもあって、『ときとして遊興に出かけてさえ、場合によっては、所謂「付き合い」で遊びに出たときの現代人と同様、必ずしも楽しんではいなかったのである。』(N2415あたり)。そのように御曹司には御曹司ならではの生きにくさもあった。
 何事もなくても日参することが奉公といった奉公観があった。そうしたこともあって関白が朝廷の事実上の最高権力者である時には、関白邸への出入りをゆるされると、それ以降は毎日関白邸に顔を見せなければならなかった。
 牛車を牽く牛は、その角の大きさによって評価されていた。そして『当時、名門貴族家の御曹司でさえ、牛車用の牽き牛は、一頭しか持っていなかったらしい』(N3585あたり)というのはちょっと意外。
 長谷寺に行くのに、強盗がよくでることで知られる奈良坂を通る必要があった。そのため従者に武者を加えるために、軍事貴族(後の武家の棟梁と呼ばれるような家の人)に依頼して武者を貸し出して貰っていた。
 王朝時代の名門貴族であっても、『自己の経営する荘園からの収入によってその出費の大半を賄っていたわけではない。』(N5510あたり)。あくまで彼らの本質は朝廷に仕える官人で、『朝廷から与えられる棒給によって暮らす給与生活者だったのである。そして、そんな彼らにとって、荘園からの収入と言うのは、副収入として扱われる程度のものに過ぎなかった。』(N5510あたり)。
 あとがきの「雲州消息」は書簡例文集としての本だが、そこに収録されている手紙に冒頭の挨拶に言葉はない。当時は手紙の書き出しを、挨拶の言葉からはじめるという文化はなかったという話はちょっと面白い。