論語物語


 青空文庫で読了。以前から気になっていたので青空文庫入りを契機に読む。
 論語をちゃんと読んだことはないけど、ちょっと読んでみようかなという気になった。というか、本当にいい加減に読まないとな。同じ著者の「現代語訳論語」も青空文庫に入っているからそれを読もうかな。
 序文によると『論語の中の言葉を、読過の感激にまかせて、それぞれに小さな物語に仕立てて見たいというのが本書の意図である。』(N8あたり)ただし物語といっても各個の挿話は独立している。
 そしてひとつひとつの挿話が短く、各個独立しているで読みやすい。それに弟子たちの説諭の言葉だけとかよりも、物語としての背景があるほうが個人的には読みやすい。
 『小人がつけ上るのも、怨むのも、また嫉妬心を起すのも、結局は自分だけがよく思われ、自分だけが愛されたいからだ。悪の根元は何といっても自分を愛し過ぎることにある。この根本悪に眼を覚まさせない限り、彼等はどうにもなるものではない。』(N1300あたり)自己愛(エゴ)を抑えて、なくすことさまざまな言い方で語っている。論語を読んだことがないからわからないけど、どうやらこれを読んでいる限り、どうやらこれが根幹の主張みたいだな。自己愛や自分基準の判断をなくしていく、そうすれば何も意図せずとも最適な真理に叶った振る舞いができるようになるということか。当然その道は言うは易く行うは難し。
 自己愛を戒めるなど教訓譚的な挿話集だが、そうはいっても説教臭くなっていないのがいいね。それは師弟双方の信頼関係と、道に叶うために発した言葉で強い一貫性があるからかな。

 「富める子貢」孔子の門人の子貢が貧乏なときはへつらわないように苦労し、富裕となった現在も驕らないように気を使っている。そのことに自信を持っていて、それを師である孔子にいったらその試みは『たしかに成功している。それはさっきも云った通りじゃ。しかし、へつらうまい驕るまいと気を使うのは、まだ君の心のどこかに、へつらう心や驕る心が残っているからではあるまいかの。』(N125)と現状で既に満足している心を戒めて、そこが到達点ではないことを気づかせる。
 それに気づいた彼は、同時に『芸術は手段ではない。同様に求道は処世術ではない。工匠が芸術に生きる喜びを持つように、求道者は道そのものを楽しむ心に生きなければならない。』(N125あたり)ということにも気づく。
 「志を言う」孔子は門人中最年長で行動的で自負心の強い子路を少し危ぶんでいた。そのため病弱だが道の探求者として優秀で心も敬虔な顔淵と彼がいるときに、二人に対して「理想」とは何かを問うた。
 それに対して子路は政治の要職についても友人たちと物事を分かちあうこと、寛大さを決して忘れないことと答える。前提に自分が立身出世して、友人たちを下に見ていることを講師は不安がる。
 それに対して、顔淵が『私は、善に誇らず、労を衒てらわず、自分の為すべきことを、ただただ真心をこめてやって見たいと思うだけです。』といった。
 その後、子路が先生はと問うと『わしは、老人たちの心を安らかにしたい、朋友とは信を以て交わりたい、年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのじゃ。』と述べる。平凡に見える答えが返ってきて子路あっけにとられる。しかし顔淵は自分はあくまで自分中心に考えているが、先生はそもそも自分にとらわれていないから誇るも衒うもない。自分にとらわれず、周囲の現実に対してなすべき事を為して行けばいいという孔子のメッセージを受け取って首をたれた。
 「磬を撃つ孔子」講師の弟子の冉有が、政治に携わらずに野に下り畑仕事などをしている隠士(知識人)が孔子を評した『世の中がそれほど恋しけりゃ、わがままを云わないで、あっさり誰かに使って貰ったら、どうじゃな。それとも、わがままが云いたけりゃ、奇麗さっぱりと世の中を諦めるか。』という言葉に少し動揺する。しかしそれを聞かされた孔子の『思いきりのよい男じゃな。しかし、一身を潔くするというだけのことなら、大して難かしいことではない。難かしいのは天下と共に潔くなることじゃ。』(N1700あたり)という言葉に納得して落ち着く。
 「司馬牛の悩み」司馬牛の兄弟が孔子一行を追い出す。それが悲しいし、自分も怪しまれているのではと思うと更に悲しい。子夏がそんなことないと慰める。そして孔子は『君が、兄弟たちの悪事に関わりのないことは、君自身の心に問うて疑う余地のないことじゃ。それだのに、なぜ君はそんなにくよくよするのじゃ。なぜ乞食のように人にばかり批判を求めるのじゃ。それは、君が君自身を愛しすぎるためではないかな。……われわれには、もっと外にすることがある筈じゃ。』(N2070あたり)と全く関係ないことに心を痛めるのは自己愛のせいで自分を気にしすぎると指摘する。兄弟の行いが彼には全く関係ないことだとする優しさを見せるが、こうしたときでもしっかりと指導をする。
 「渡場」世事を茶化し嘲弄する隠士たちが、孔子について『あの殿様もいやだ、この殿様もいやだというところを、ちょいと一つ飛びこして、この世の中全体に、見切りをつけて見る気には成れないものかね。気楽に高見の見物が出来て、そりゃいいものだぜ。』(N2315あたり)という。その日の子路は妙にしんみりして、彼らのそうした態度は気に入らないが、彼らがいかにも自由で平安で、徹底しているのに心を打たれていた。
 そのことを孔子に話したら、師の『「わしは人間の歩く道を歩きたい。人間と一緒でないと、わしの気が落ちつかないのじゃ。」/(中略)/「山野に放吟し、鳥獣を友とするのも、なるほど一つの生き方であるかも知れない。しかし、わしには真似の出来ないことじゃ。わしには、それが卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならないのじゃ。わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いて見たい。つまり、人間同志で苦しむだけ苦しんで見たい、というのがわしの心からの願いじゃ。そこにわしの喜びもあれば、安心もある。子路の話では、隠士たちは、こう濁った世の中には未練がない、と云っているそうじゃが、わしに云わせると、濁った世の中であればこそ、その中で苦しんで見たいのじゃ。正しい道が行われている世の中なら、今頃はわしも、こうあくせくと旅をつづけていはしまい。」』という言葉を聞く。それを聞いて子路は隠士に心を動かしたことを反省し、孔子の偉大さを実感する。
 ドン・キホーテであるかもしれない、徒労に終わって報われないかもしれないが、それを怖れないし後悔しない。
 「陳蔡の野」子路孔子に君子も行き詰ることがあるかと尋ねると、孔子は『それは無論君子にだってある。しかし君子は濫みだれることがない。濫れないところに、おのずからまた道があるのじゃ。これに反して、小人が行詰ると必ず濫れる。濫れればもう道は絶対にない。それが本当の行詰りじゃ。』(N2420あたり)と答える。