図説 金枝篇 上

図説 金枝篇(上) (講談社学術文庫)

図説 金枝篇(上) (講談社学術文庫)

  • 作者: ジェームズ.ジョージ・フレーザー,メアリー・ダグラス,サビーヌ・マコーマック,吉岡晶子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/04/11
  • メディア: 文庫
  • 購入: 2人 クリック: 22回
  • この商品を含むブログ (9件) を見る

内容(「BOOK」データベースより)

イタリアのネミ村の祭司は、なぜ「聖なる樹」の枝を手にした者と戦い、殺される宿命にあったのか。この謎を解くべく、イギリスのフレーザーは四十年を費やして全十三巻の大著『金枝篇』を著した。世界各地の信仰と習俗を蒐集した民族学の必読書であり、難解さでも知られるこの書を、二人の人類学者が読みやすく編集した「図説・簡約版」の日本語訳。

 13巻と長大な本の中で、数多の例証に埋もれて見えにくくなっている「殺される神」という主題がわかりやすいように1巻(邦訳は上下巻)編集したもの。省略した例は多いが、文章に手を加えているわけではないようだ。
 ただ、各部のはじめに1ページで、どういうことが書かれているかの概略が書かれていて、それが非常にありがたい。
 ローマ近郊のネミの村にあった「森の王」と呼ばれる神殿の祭司にまつわる一見奇妙・異様とも見える慣習。それについて世界のさまざまな例証をあげながら、その慣習にはどういう意味を表しているのかだったり、それが普遍的で呪術的なものであるかが書かれている。

 冒頭のメアリー・ダグラスの序文によると『ネミの祭司も、ヤドリギの枝さえも、フレーザーに『金枝篇』を書かせたそもそもの動機あるいは第一の目的ではなく、巧みな語り部が操る手品の小箱なのだと思う。この本の冒頭と最後を飾るディアナの祭司と北欧神話の神バルデル(バルドル)は、ヘンリー・ジェームズのいう「操り糸」なのだ。この神話の構造がすっかり明らかにされる前に、読者がその構造を感じとれるように、物語をしっかりつなぎ合わせるための必要な意図なのである。』(P20)

 ○ネミの祭司の継承の慣習。
 『ローマ近くにネミという村があった。その村には、古代ローマの時代より森と動物の女神、豊穣の女神ディアナと、ディアナの夫ウィリビウスを祀った神殿があった。この神殿では、男は誰でもその祭司になり、「森の王」の称号をえられるというしきたりがあった。ただし、祭司になるには、男はまず神殿の森の聖なる樹から一本の枝――「禁止」――を手折り、それでときの祭司を殺さなければならなかった。こうしてこの神殿の祭司職が継承されてきたのである。祭司になるのに、なぜ時の祭司を殺さなければならないのか? なぜまず聖なる樹の枝を手折らなければならないのか?この二つの疑問にたいする答えをもとめるのが本書『金枝篇』の目的である。
 いずれもそう単純に答えの出る疑問ではない。そこで、フレーザーはこのネミの慣習に類似する例を集め、比較検討している。古今東西、似たようなしきたりが存在した事実を示すことで、古代の人々の心の動きを理解し、そのうえでネミの祭司職継承の掟を明らかにできるのではないかと考えていたからである。』(P39-40)
 その『ローマ衰亡のころまでネミで行われていた慣習』(P55)では、『ネミの聖所には一本の樹があり、その枝は一枝たりとも折ってはならないとされていた。ただし、逃亡してきた奴隷だけは、枝を一本折れるなら折ってもよかった。首尾よく枝を折りとった奴隷は、祭祀と一騎打ちする資格が与えられ、その戦いで相手の祭祀を殺せば、代わって「森の王」として治めることになった。』(P57)

 ○神殿に祭られる神、そして神の化身としての森の王。
 ネミの神殿では祀られていたディアナは豊穣の女神で、多くの社会で樹木に豊穣の力が宿るとされていた。そして古代欧州ではオークがその意味で最も重要な樹木とされていた。そのためディアナの聖なる樹はオークとされる。
 またネミの神殿でディアナと共に祀られるウィルビウスは、ネミではオークの神であり天空神ユピテルの化身で、ユピテルが人間の姿をしたのが森の王である。
 『要するに、「森の王」たる人間は、その聖なる森のディアナを神妃としていたわけだ。』(P77)
 ネミの祭司は森の王と呼ばれているが、『共和国アテナイでも、その年の第二執政官は「王」と呼ばれ、その妻は王妃と呼ばれており、いずれも宗教的な技能を果たしていた。ギリシアの民主国家には、アテナイのほかにも肩書きだけの王のいる国家が数多くあった。その王の職務は、現在わかっているところでは、祭司的なもので、もっぱら国家の「共同炉床」を司っていたらしい。』(P79-80)つまり、森の王はそうした意味での王

 ○奇異に見えるネミの慣習は呪術的に考えると、理解ができる
 そして『『金枝篇』全体を通して、フレーザーの関心は、原始的なものの考え方がどのような形で世界を支配・統制しようとしているかという点に注がれている。フレーザーによれば、因果関係――一つの事柄が別の事柄に影響を及ぼすこと――の問題を明らかにする鍵は二種類の関連性にあるという。一つは類似性、すなわち、原因はその結果と類似しているという意味での関連性である。たとえば、相手に害を与えたいと願う者は、乗ろう相手の姿に模した人形に害を加え、それが相手に跳ね返って害を与えることを期待する。もう一つは連続性、すなわち、かつては一緒で、後に別々になった二つの者は引き続き互いに影響をおよぼしあうという意味での関連性である。この場合は、相手の姿に模した人形ではなく、むしろ相手の個人的な持ち物に害を加える。』(P40)
 『「類似の法則」に根ざした呪力を「類感呪術」あるいは「模倣呪術」と呼び、「接触あるいは感染の法則」に根ざした呪力を「感染呪術」と呼んでもよい。』(P84)共感呪術は類感呪術(模範呪術)と感染呪術とに二分される。

 ○呪術の歴史的な役割
 呪術が公的な役目を担うことになると、『民衆の安寧がこれらの呪術儀式によって左右されるとなると、呪術師は大きな影響力をもち、辛抱を得る立場に』なる。そうして少数の人間あるいは一人が権力を手に入れて、君主制・寡頭制になる。『こうした変化は、その原因が何であれ、古代社会をだれが支配していたにせよ、全体としてみればきわめて有益な変化であった。君主制の誕生は人類が未開の状態から抜け出すための必須条件だったと思われるからだ。人類の歴史で、民主的な未開人ほど慣習と伝統でがんじがらめになっている人々はなく、その結果、そのような社会は進歩が遅れ、進歩しにくいものだからである。』(P110)『だから、呪術という公的職能は、もっとも有能な人間が最高権力の座に就く手段の一つだったことで、人類を伝統の枷から解放するのに貢献し、人類はもっと自由な暮らしができるようになったのである。』(P111)

 ○近代ヨーロッパにも残る、ネミにも通じるような植物崇拝的な行事。
 近代ヨーロッパでも春に、木を切って持ち帰りその木の枝を各戸で飾ったり、あるいは「五月の樹」を立ててその下で陽気に騒ぐ(プロヴァンス地方)、花や季節の果物で飾った小さな糸杉を持った少女が各戸を訪れ葡萄酒をふるまってもらう(ギリシアのコルフ島)、「緑のゲオルグ」に扮した若者あるいは木像を川などに投げ入れて雨を願う、または木の葉をまとった人物が結婚相手を探してその格好のまま待ち、それで出会い結婚すると「五月の花婿」と呼ばれるなどというようなかつての植物崇拝の名残を感じる行事がある。
 『ネミの聖なる森で、人々は人間である「森の王」と神である「森の女王」ディアナの結婚を、「五月の王と王妃」の結婚のように毎年祝っていたのではないかということだ。』(P168)仮説。

 ○神の化身たる聖なる王
 『彼らは王として生まれて統治していたのではなく、神の代理あるいは化身として神格をもって納めていたと考えられる。また、そうした神格を備えていたからこそ、女神と結ばれたのであり、さらには、神としての役目を果たすのにふさわしい者であることを、折にふれ証明してみせなければならなかったのだろう。そこで、彼らは肉体をかけて過酷な戦いに挑み、しばしば命を落とすはめになり、戦いの勝利者に王冠を譲り渡すことになったに違いない。』(P169)
 神の化身たる森の王と豊穣の神ディアナとの結婚には、類感呪術によって植物の育成を促す目的があった。
 『のちにはその栄光をはぎとられ、零落したとはいえ、ネミの「森の王」が代々続く聖なる王を代表する存在であったと考えても、あながちはなはだしく無謀とはいえないだろう。ネミの「森の王」は、かつて人々がさまざまな祝福を与えてくれると信じて、崇拝されるだけでなく恭順すら示してきた代々の聖なる王の継承者だったといってもよい。』(P180)
 『「森の王」という称号が明らかに示しているように、彼が仕えるのは森そのものの神である。彼を襲うことができるのは、森の特定の樹の枝を手折った者だけだということから、彼の生命はその聖なる樹と切っても切れない関係にあったと言える。このように、ネミの祭司はアーリア民族の崇めるオークの神に仕えていただけでなく、その神の化身でもあった。そして、オークの神として、エゲリアとかディアナと呼ばれるオークの神とめあわせられた。』(P182-3)

 ○神の化身が何故殺されるか。
 神の化身は強力な呪力を持つ。そしてその呪力で恵みをもたらす。
 しかし人間神が老いると崇拝者は対処する必要がある。『なぜなら、自然の運航が個の人間神の命に委ねられているとすれば、その力がしだいに衰え、ついには力つきて死んでしまったら、どんな悲劇的な結末が待ちうけているかしれないのである。このような危険を回避する道は一つしかない。人間神の力に衰え賭けた兆候が見えたら、たちどころに殺してしまわなければならない。そして、その霊魂が迫りくる衰えによってひどく損なわれないうちに、元気な継承者に移してしまわなければならない。』(P238-9)
 ネミの森の王以外にも、『カンボジアの神秘的な「火の王」と「水の王」は、自然死を遂げるのを許されない。そこで、これらの王が重病になり、回復はおぼつかないとなると、長老たちが刺殺してしまう。コンゴ族には、チトメと呼ぶ大祭司が自然史を遂げると、この世は滅亡し、その力と功徳で支えられてきた大地はたちどころに崩壊してしまうと信じる人たちがいた。そこでチトメが病いに倒れ、回復の身いこみはないとみるや、その継承者となる定めの男が、縄か棍棒をもって、そのチトメの家に行き、絞殺するか撲殺した。』(P239-40)
 そして『シルック族の王は、衰えが始まった兆候が現れると、相応な儀式で殺されることになっていた。そればかりでなく、まだ健康も力も盛りにあるときですら、いつなんどき競争相手に襲われるやもしれず、そのときは死をかけて戦い、王座を守らなければならない。』(P243)
 『いずれの場合も、代々の聖なる王の命が人間や家畜や植物の豊穣を左右するとしんじられており、その王が一騎打ちにしろほかの形にしろ殺されるのは、その聖なる霊を病気や老齢によって弱ったり衰えたりした王から活力あふれる継承者に移すためであり、それは、王が弱れば人間や家畜や作物も弱るのだと崇拝者たちが考えたからである。』(P245)