渋江抽斎

渋江抽斎

渋江抽斎

内容紹介

明治・大正期の文学者、森鴎外の長編伝記小説。初出は「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」[1916(大正5)年]。鴎外が「武鑑」の収集によって出会った弘前津軽家の侍医であり考証学者でもある渋江道純の伝記を記述から始まる。そこから、抽斎、妻の五百への人間描写へと移り、人と人とのつながりを浮き彫りにしていく。歴史的な事実に迫りながら、そこに見える人間像に深みを持たせた本作は、鴎外の伝記文学の最高峰との声もある。
amazonより引用)


 青空文庫で読了。
 森鴎外の筆による江戸末期の医者で、文筆にも優れていた渋江抽斎の伝記。抽斎は医学と色々な著述の両方で優れていた人物で、そうした意味でも森鴎外自身と重なる部分も多く、偉大な先達として興味を持って調べた成果(彼の生涯)を伝記として文章にしたもの。ただし半分くらいで抽斎の死亡が書かれて、あとの半分はその後の家族、幕末維新の混乱期のことやそれを経ての明治を渋江家の人々がどう生きたかが書かれる。

 まず鴎外が渋江抽斎に興味を持った由縁が書かれて、どう調べたかや世話になった人物の名をあげる。そして抽斎の伝記が始まるが、大体半分くらいの分量で彼の死まで行きついたあとに、彼の著作についての話がなされる。そして後半では抽斎の死後の友人たちや渋江家の人々のこと、彼らが維新の混乱期やその後の明示をどう生きたかが書かれる。

 渋江抽斎は多くの分野での著述をした人物で、彼は長唄の本(「四つの生み」)なども書いていて、その本はこの文章が書かれた当時『杵屋の一派では用いている謡物の一つ』(N70あたり)となっていた。そして彼が考証学の優れた本を書いた。

 森鴎外は武鑑蒐集の趣味を通じて、抽斎という号の無名の古武鑑に精通している人物の本を知って、その人物が弘前の渋江氏と同一人物ではないかと少し気になって調べてみた。それが鴎外が渋江抽斎に興味を持ったきっかけだった。
 そして同一人物だと知ると同時に、『抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。』(N221あたり)そして親近感も感じた。
 そのことで一層彼に対する興味が湧いて、彼について深く知りたいと思う。そして彼の存命の子供たちから話を聞く。そうして知った話やその他の人から知った話などをまとめたのがこの本。

 師事した人の名前や親交のあった人の名前など色んな人の名前がポンポン出てきて、そしてそれら人の簡単な説明などがされるので、ちょっと目が滑る。
 そして時々、鴎外が調べるにあたってどんなことをしたか、どんな人に訪ねて歩いて、協力してもらったかが語られる。

 妻との死別を繰り返した渋江抽斎の4回目の結婚で妻となった五百(いお)。抽斎40、五百29で結婚だった。彼女のエピソードで本丸に武家奉公をしていた頃に、夕方になると閉める窓に鬼がでて、小石を投げたり灰をかけたりするという噂があった。彼女はその時十代前半だったが度胸があったので、その悪戯をする鬼を捕まえた。するとその鬼は「許せ許せ」ともがいた。鬼の面をはずしてみると、後に津山城松平家に婿入りしていた徳川家斉の十四男斉民だったという話はちょっと好き。少女ながら勇気のある五百もそうだが、子供っぽい(実際子供だが)悪戯をして捕まったら許せ許せという言うというのもいいな。

 その後15歳で藤堂家の中蟖兼奥方祐筆となって、そして16歳で通例では24、5の人物が務める中蟖頭となったようなので、かなり優れた人だったようだ。藤堂家の給与は他家のものよりも少なかったようだが、当時の武家奉公は修業のために行くもので、五百も風儀のよさそうな家を選んで仕えようとしていたので給金については気にしていなかったようだ。
 五百が若い頃から武家奉公して、長年を過ごしたのはそうした修行のためで、親の希望もあってのことだった。その他にも彼女は父の後妻が母が最後の産で亡くなる前に耳の調子が悪くなっていたのを揶揄していたことを兄から聞いて嫌いだったから、家から出ることを喜んでいたというのもあるという。
 渋江抽斎が校刻に携わった『医心方』にまつわる話も興味深い。昔の本で、秘本だった古医書『医心方』が900年の時を経て世に出るにあたって医学者の関心が深かった。今の感覚だとそんな前の本だとあまり役に立たないのではないかと思ってしまいそうだけど、長らく秘されていた本だということで実用的にもよい本だろうという期待があったのかね。
 抽斎の次男優善は放蕩者だった。そんな彼は松川飛蝶を名乗り、遊び仲間と寄席にでたり、夏には『舟を籍りて墨田川を上下して、影芝居を興行した。』(N2195あたり)

 ひとまず抽斎の死亡までが書かれたのちに、彼が著述したものについての解説がいくらか書かれる。それを見ると随分いろんなものを欠いているなとちょっと驚く。その後には抽斎死後の渋江家の人々の姿が詳しく書かれる。抽斎の死亡の前後でちょうどはんぶんずつくらい。
 五百が43歳のときに、抽斎が亡くなる。
 明治元年、江戸を去って弘前に向かう。津軽家は近衛家に縁故があって官軍に加わっていて、東北は佐幕派の藩ばかりなので、大所帯でのその旅路はなかなか大変だったようだ。官軍側ならわざわざ江戸を発ったのはなんでなのか。それも発った日が官軍が江戸を収めた日で、わざわざでていかなくてもよさそうに思うが、まだ不安定で幕臣佐幕派が何かしたら危ないからということなのかな?
 五百と抽斎の結婚。兄栄次郎がふらふらしているので、妹の五百が婿を取って家を継ぐという話がでていたが、そういうことはしたくない。そこで非常に学問のある医官である渋江氏の後妻となることで、間違ったことをすればその威もあって、助言も素直に聞き入れられるだろうという目論見もあって、自分との結婚話を共通の知人を通じて、抽斎に勧めた。
 抽斎の話よりも、その妻五百の印象が強い。エピソード的にも彼女のほうが、個性がみえる挿話が多くて面白かったな。そして五百の最愛の息子保とのエピソードだったり、後に長唄の師匠となった娘の陸(杵屋勝久)の話の方が個人的には面白かった。

 特に五百と保との『八月中の事であった。保は客を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、一週日ほどの間柳島の帆足謙三というものの家に起臥していた。烏森町の家には水木を遺のこして母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
 保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「只今帰りました」と、保はいった。
「お帰かえ」といって、五百は微笑した。
「おっ母様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
 翌朝保が「わたくしは今朝は生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
 午になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに水貝を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
 晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては凌しのぎ切れません。これから汐湯に這入はいって、湖月に寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしも往くよ。」五百は遂に汐湯に入いって、湖月で飲食した。
 五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。』(N4840あたり)というエピソードが好き。
 抽斎のエピソードでは、『さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆ど日記のように悉く書いたのである。抽斎は初め数行を読んで、直ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
 允成は抽斎の徳に親まぬのを見て、前途のために危んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本づいて文案を作って、徳に筆を把らせ、家内の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
 抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。』(N1390あたり)というエピソードが印象的。