美濃牛

美濃牛 (講談社文庫)

美濃牛 (講談社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

病を癒す力を持つ「奇跡の泉」があるという亀恩洞は、別名を〈鬼隠れの穴〉といい、高賀童子という牛鬼が棲むと伝えられていた。運命の夜、その鍾乳洞前で発見された無惨な遺体は、やがて起こる惨劇の始まりに過ぎなかった。古今東西の物語の意匠と作家へのオマージュが散りばめられた、精密で豊潤な傑作推理小説

 再読。ネタバレあり
 編集部からの依頼でフリーライターの天瀬とカメラマンの町田は、岐阜県暮枝の病が治る奇跡の泉の取材をすることになる。彼らは取材内容を説明してもらうときに、その企画の持ち込み者で取材の同行者でもある石動と顔を合わした。二人は奇跡の泉の話もうさんくささを感じて、憂鬱になりながらその土地へ行くことになる。
 暮枝に着いた一行だったが目的の鍾乳洞(亀恩洞)には所有者の許可が得られず入れない。どうやら石動は取材にかこつけて鍾乳洞に入ろうとしていたようだがそれは失敗。
 天瀬と町田は、村で自給自足の共同生活を送りながら瞑想やヨガを教える保龍氏のニューエイジ同好会に行き、保龍に話を聞く。そこで彼からゼネコンでこの土地のリゾート計画があって、それを持ちこんだのが石動だということを聞かされる。それを聞いて取材に来た二人は、大手ゼネコンのアセンズ建設からの依頼だからこうした取材をすることになったのかと納得できた。
 第一章―11での羅堂哲史パートでの、石動がリゾート話を持ってきてよかったと書いて、その後で牛を扱う苦労が書かれた後で『彼が暮枝に来てくれて、本当によかった』(P130)と書いてある。彼が石動でなく飛鳥ということを知った上で見ると上手いなと感心する。内心の描写だし、嫌な現在の生活を書いた後唯一の救いとしての恋している相手のことを思い出すのも自然だから、上手いな。
 その後の飛鳥のパートで、哲史の愛しい純情さを田舎の子だからかなと思っているのもちょっといいね。哲史自身は都会っ子だけど、そう思われている。それにはくすりとさせられる。しかし彼の田舎の子という認識が相手を寄り合いらしいものとして感じると同時に、汚してはならないものと捉えることになって、それが哲史を遠ざけることにもつながり、そのまま永遠の別れとなったのであれば悲しい。
 色々な人物の視点へ変わって、各人の視点でその人のリゾート話などについての考えが書かれているのもいいね。
 宿泊先に帰ってきた天瀬らは石動に保龍氏から聞いたことについて聞く。すると石動は、大学の先輩である古賀がアセンズに務めていて、彼が石動を心配していることもあって何か企画書を書けと言われて書いたものが会議を通って、それで交渉までやることになったという事情が語られる。
 真相を知った後で見ると、陣一郎(鋤屋和人)が『窓音は羅堂の血をいちばん濃く引いてるからな』(P290)という言葉にぞっとする。本当にそうならば天瀬が抱く恐れも、あながち勘ぐりとはいえないな。他にもおぞましい真相を知った後で見ると、新築したのに全くバリア・フリーになっておらず陣一郎がくることを想定されていない家とかにも怖さを感じる。
 三章―2で村人たちがわらべ歌の見立て殺人ではないかということを口にしたときに、石動が『「そんなことをして、なんになるんです?」/(中略)/「誰もろくに歌詞すら覚えてないのに!」』(P452)と発言したのには笑った。
 初めに話を聞いた奇跡で病が治った倉内さんから聞いた話では、たまたま見かけた泉に入ったことで治ったと言っていたが、実は伝説をリサーチしていたことが分かる。そして事件の真相がいまだわからないうちに、彼女が実は医者と共謀して保険金詐欺をするためにそんなことをいっていたことがニュースで流れる。
 彼女視点で見れば、そうするために奇跡を起こしたと言ってくれる人を探していたが、保龍氏はそういう人ではなく、仕方なく探して泉の話にたどり着きそれで治ったことにした。それがリゾート開発段に膨らんだことで、最後にはお縄というコメディ的なお話となるのはちょっと面白い。
 飛鳥や灰田と怪しいと思われていた人も、ふたを開けてみればこの事件とは関係のない隠していた事情で怪しく見られていただけだったことがわかる。そうして犯人がわからぬままに、一人一人羅堂家の人間が死んでいく。
 倉内の話の虚構がわかってリゾートの話もお流れになるかと思われた。しかし火浦が泉につかって癌が癒えたことが判明する。そして事件後に開発されることになる。
 真相が明かされた後、陣一郎(和人)は、窓音は裏で起こっていたことを薄々察しながら、馬鹿な人間が殺し合うのを放っておいていたと天瀬に語る。そして後見人として自分に都合よく扱える天瀬を見つけた、和人は『気を付けなよ、天瀬さん。あと何年かしたら、あんたがここにとじこめられているかもしれないぜ』(P730)と忠告(呪言)を残す。
 天瀬はそうした嫌な想像を否定しがたいもののように思うが、それでも窓音の魅力から逃れ難く、冒頭のようなことになっている。冒頭の天瀬の『かわいそうじゃない。なかには、監禁されたがってるやつもいるだろう。暗く狭苦しい場所に閉じ込められて、だんだん気が変になっていくのを楽しんでる。そんなやつだっているさ』(P9)という言葉は自分のことを言っている。