民衆という幻像 渡辺京二コレクション2 民衆論

内容(「BOOK」データベースより)

冬の夜、結核療養所で聞こえた奇妙な泣き声。日中衰弱しきって運び込まれた母娘は、朝を待たずに逝った。それを知った著者は、娘の体をさする瀕死の母親のやせた腕を幻視する―「小さきものの実存と歴史のあいだに開いた深淵」、それは著者の原点にして終生のテーマとなった。近代市民社会と前近代が最深部で激突した水俣病闘争と患者を描く「現実と幻のはざま」、石牟礼道子を日本文学に初めて現れた性質の作家と位置付けた三つの論考、大連体験・結核体験に触れた自伝的文章など39編からは、歴史に埋もれた理不尽な死をめぐる著者の道程が一望できる。


 「維新の夢 渡辺京二コレクション1 史論」では明治から昭和にかけて近代と格闘した人々の政治思想について書かれていた。この本では『テーマによって、? 民衆の情念に関するもの、? 現代文明論、? 大きな意味での文学論、そして、? 自ら語った文章群の四章に大別した。』(P505)自身の話、文学や文明の話、民衆についての話など、さまざまな内容のものが収録されている。著者が自身について書いたものなどは、著者自身のことについてはあまり知らなかったので、興味深かった。
 それから「苦海浄土」の石牟礼道子さんについて書かれた文章も面白い。二人が非常に親しい仲だというのは知らなかった。
 『人間の社会は歴史と共に進歩し、残酷物語は人智と共に確実に減少するであろう。しかし、世界史の展開がこれら小さき者のささやかな幸福と安楽の犠牲の上に気付かれるという事情もまた確実に続き行くだろう。』(P13)少なくなってもなくなることのないそうした人々がテーマかな。
 1章は半分くらい、水俣での被害民の近代市民社会以前の昔からの道徳観と資本制社会の論理との対立や、石牟礼道子さんの話。そうした古風な、近代以前の感覚の残る民衆についての話が書かれている。
 「石牟礼道子の世界―講談社文庫版『苦海浄土』解説―」水俣出身の作者が、そうした公害によって悲劇的に崩壊したが、それがなくとも時代の流れで崩壊したであろう世界や人々を私的な文章で書いている。
 『患者の言い表していない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自身である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出てくるのかもしれない。この地震、というより彼らの沈黙へ限りなく近づきたいという使命感なのかも知れない』(P99)。作者もみんな聞き書きだと思っていると笑っていたと書かかれているが、ノンフィクションだと思っていたのでちょっと驚いた。もちろん水俣に生まれ育ったものとして同じ世界観や感覚を持っていて、思いをくみ取れるという自信があるから書けることだろうけどね。渡辺さんが私小説という表現されているのを見て、納得がいった。単なる告発小説ではなく、その世界の美しさを書いた、消えゆく世界への挽歌みたいなものでもあることがわかって「苦海浄土」を読んでみたくなった。
 「石牟礼道子の時空」その作品は『日本近代文学が描いてきた世界とは異質な、あえていえば、それよりひと廻りふた廻りも広大で、しかも深く根源的な世界を表現しようとしている』(P119)きわめてユニークなもの。近代文学では労働の苦しさや生活の窮屈さの幼うなことばかり書かれていたが、彼女は『農民が農業労働を通して経験する世界』(P127)その豊かさ、農作業や農民が生活の中で得るよろこび、を書いている。そのユニークさを聞いてなお読みたくなる。
 そうした石牟礼道子作品についてや、山本周五郎柳橋物語」、井上ひさし吉里吉里人」、フォークナー「サンクチュアリ」などの小説についての話、あるいは他のテーマについて語られている時について触れられた小説についての話もわかりやすくて面白いので、それらの作品を読みたくさせる。
 それから著者が影響を受けた谷川雁について書いたものも興味深い。『吉本隆明さんはかつて雁さんを評して私にこういったことがある。「あの人は日本一のオルグですよ」。』(P417)詩人で思想家で、そうした際立った能力もあったと知り、また何よりこの著者に影響を与えた人物であるから、この人物についてもっと知りたいという気持ちがわいてきた。
 「ポストモダンの行方」ポストモダンという言葉は眼にするけど、そんなに興味ないことも会ってよく知らなかったが、そのポストモダンという思想がとてもわかりやすく紹介されていて良かった。
 「挫折について」 では映画「灰とダイヤモンド」を例にあげて、それまで正しいとされていてそれに尽くし戦ったが、敗れてそれを否定される。そうした挫折についての話、興味深い。
 『かつて民衆と一体となって、その信望を担って戦ったものが、歴史の地滑りとともに今日は民衆の敵とならなければならぬ。もとよりこの実行者は無智である。無智であるが故に、挫折の痛みはことごとく彼が自らに引き受けねばならぬ、しかも彼の中には何物もいやすことのできぬ怨念が凝結する。彼は死ぬべきであったと思う。彼はよき被はすべて去ったと呟き、そのよき日なるものが幻影にすぎぬと悟りながら、その幻影と怨恨以外に生きる支えを知らない。マチェクがホテルのバーで「われわれは生き残りだ」といい、かつてともにたたかった多くのパルチザンにふれつつ「ああいう時代があったんだな」と乾いた笑い声を立てる。「灰とダイヤモンド」の主題は実にこのシーンに圧縮されているといってよく、挫折者の心情はいつの時にあってもこれ以外の表現を取らぬのである。』(「民衆という幻像 渡辺京二コレクション2 民衆論」P436)
 解説で著者は毎日『石牟礼さんのところに通い、郵便物の点検をし、原稿の清書をする。』(P494)と書かれているのを見て、どういう関係とちょっと驚く。