図説 吉原事典

図説 吉原事典 (朝日文庫)

図説 吉原事典 (朝日文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

最新の文化やファッションの発信地でもあった江戸最大の遊興場所・吉原。340年もの間、人々を魅了し続けた理由、遊女の1日のスケジュール、花魁と一晩過ごすと現代ではいくらかかるのか…浮世絵と図版満載で、吉原がもっと身近になる、時代小説・吉原ファン必携の書。


 江戸の歓楽地であり、観光地であり、そして苦界に閉じ込められた遊女たちのいる吉原。明暗どちらも書かれる。時代的には文化文政時代(1804〜30)の吉原のことが主に書かれる。
 吉原の遊女の数は化政期は5000人台で、幕末は4000人台。
 個室を与えられる部屋持以上が花魁(上級遊女)と言われる。上級でようやく部屋が与えられるとか、環境悪いな。花魁には下から部屋持、座敷持、昼三、呼び出し昼三がいる。そして花魁道中をする花魁は、『大見世の最高位の呼び出し昼三である。』(P148)
 生活の窮乏から身売りして遊女になったことを前提として知っているため、『当時の人々は誰も「淫乱で男が好きだから遊女になった」とは考えなかった。むしろ、遊女は親孝行をした女、身売りは親孝行と理解するのが一般的な社会通念だった。』(P48)そして吉原の遊女は「年期は最長十年、二十七歳まで」という原則があった』(P51)ものの、客がとれるようになってから十年なのでそれ以上に拘束されることが多かったし、年季が明けないうちに20代で病死する遊女も多かった。彼女らは年季が明けても吉原の外を知らず家事もできない、そして親孝行をしたのだが実家に戻っても受け入れられないため、結局違う場所で身体を売るしかないという人も多かった。そして結婚するにしても子供ができないことが多かった。ただでさえ厳しい環境で苦労したのに、その上に子供を望むのが難しくなるというのは悲惨だ。自分の意思でなく子供をもうけられなくなる、しかも当時は現在よりもずっと子供をもうけることを重要なことを感じていただろうから、一層悲惨度が増す。
 遊女や居続け(帰らずにその妓楼に連泊する)の客は朝風呂に入る。
 妓楼、入口の暖簾をくぐったら直ぐに台所が見える構造をしていた。江戸時代に吉原の妓楼に入った人は毎度それを見ていたのかと思うと興味深い。
 客と遊女が寝ている部屋では行灯を灯し続けて、真っ暗にしない。そのため不寝番は油を切らさないように夜に各部屋の行灯の油皿をついで回るのも仕事だった。
 張見世、格子の内側に遊女が並んでいるところを表通りから見れるところ。全面が格子になっている惣籬の妓楼は大見世といって一番ランクが高く、格子が4分の1ほどあいている半籬が中見世で、下半分のみが格子となっている惣半籬が小見世と、その籬の形から妓楼の格がわかり、揚げ代の見当をつけることができた。
 吉原内の出会い茶屋(現代でいうラブホテル)は誰が利用したのかというと、遊女と濃い仲となった妓楼関係者が客として登楼するわけにはいかないので、そうした場所で遊女と忍び逢っていた。そのようにわけありの男女の密会の場所であった。
 妓楼は売り上げを伸ばすために一晩に複数の客を入れる。そのダブルブッキングのことを「廻し」と呼ぶ。毎晩のようにそんなことをさせられていたとはあまりにも過酷だ。
 そして紋日という揚代が通常の倍になる日がある。それは客にも遊女にも大きな負担がかかる日で、客はその日を避けようとするが、『紋日に客のつかぬ遊女は揚代を自分で支払わなければならないきまりがあった。そのため遊女は馴染み客に紋美にきてもらうよう、あの手この手を使って懸命に頼んだ。/ 妓楼はもうけが大きくなるため、紋日をどんどんふやす。多い月には、月の三分の一が紋日になってしまった。』(P306)それで客足が減ったから寛政期に紋日は削減されることになる。ただでさえ遊女は苛酷な労働をさせているというのに、彼女たちからさらに絞り取ろうとする楼主の悪辣さに絶句する。
 妓楼の食事は質素。美味しいものは宴席で食べるか、客に悦んでもらって祝儀を出させて買わなければいけない。そのように質素な食事のため、下級遊女や禿は宴席の残りなどを隠しておいて食べる。売られるときにはいい食事がと決まり文句のようにいって納得させているが、実体がこれでは詐欺だと多くの吉原の女性たちが思ったであろう。
 吉原の遊女は見込んであったがお歯黒をしていた。そして毛じらみなどを防ぐために除毛する風習もあった。
 遊女が客への信実を示すのにする「指切り」実際には楼主は商品価値が落ちるそのような行為をすることを許さなかっただろうし、相手の男も普通の感性ならばまず喜ばないだろうので、実際に行われていたとは思えないとのこと。単なる伝説みたいだ。
 遊女が吉原からの逃亡するのは困難だった。塀に囲まれ、唯一の出入り口はしっかり監視されている。そして『もし脱出できても、妓楼はすぐに追っ手を派遣し、草の根をわけてもさがし出した。脱走を成功させると、ほかの遊女に対してしめしがつかないからである。』(P263)吉原のことを知れば知るほど希望のない地獄感が増していく。
 そうした内情と、当時の遊里での遊蕩を認める世間の風潮も吉原繁栄に一役買ったようだということを知って、滝沢(曲亭)馬琴が当時では例外的な遊里嫌いで息子にも遊里に行くことを禁じたという話を聞くと彼に好感がわく。
 吉原が火事で焼けると、仮宅の臨時営業が認められた。その仮宅での営業は、妓楼の豪華さはないがその分揚代も安く、場所的にも吉原よりも便利だということで盛況で楼主は儲かった。吉原の火事は苦界の辛さに耐えかねた遊女の放火がほとんどだが、結果として楼主は火事だと儲かるから喜んだというのはやりきれない事実だ。
 最初は遊女たちも吉原の外で自由に出歩いたりもできるから最初は喜ぶ。しかし客が増えて数をこなさなければならなくなり、また花魁でも自分の部屋を望めず、割床(相部屋)で客の相手をしなくてはいけない。そのような酷使がされるため吉原を懐かしんだ。
 吉原は宝暦期以降は衰退傾向。岡場所や宿場に客が流れる。そして大衆化を図らざるをえなくなり、時代を経るごとに他の場所との差が薄れていった。