共産主義黒書<ソ連篇>

共産主義黒書〈ソ連篇〉 (ちくま学芸文庫)

共産主義黒書〈ソ連篇〉 (ちくま学芸文庫)

 近代共産システムが内包していた残酷さと多くの死について書かれる。
 本書ではソ連成立からスターリン時代までを主として扱っている。1917年末〜1922年末までのレーニン時代の権力掌握からの暴力サイクルと、1923〜27年の小休止を挟んでのスターリン時代の暴力サイクル。
 「ちくま学芸文庫版への訳者あとがき」で、『ペレストロイカが始まったとき、スターリンを批判したゴルバチョフレーニンに帰ることを主張し、多くのスターリン像が秘密警察の初代長官ジェルジンスキー銅像とともに破壊されたが、レーニン像は残された。赤の広場レーニンの遺体も「レーニン廟」に依然として安置されたままである。しかし、本書はスターリンの「犯罪」のほとんどはレーニンが始めたところで、レーニン主義こそソ連共産主義の犯罪の根源であると繰り返し強調している。』(P600-1)とあるように、その残酷な暴力はスターリンのみの問題でなく、レーニンも行っている。

 『山をなす古文書と証言は、そもそもの初めから、テロルが近代共産主義の基本的側面の一つだったということを示している。人質の銃殺、反乱を起こした労働者の虐殺、飢えた農民の大量死、こういったものはある国、ある時代にだけ固有の状況から生まれた「偶発的事件」にすぎなかったという考えは、きっぱりと捨て去ろう。我々のアプローチの仕方は、特定の地域を超えて、共産主義の犯罪的側面を、共産主義体制の全存在期間を通じて、共産主義システム全体に固有の物と見なすものです。』(P17-8)各地で起きたその種の残酷さは、共産主義システムに固有の物だったと考える。その残酷な側面をまとめて、それを見て共産主義とは何だったのだろうかを考える。
 文化・物品の破壊は置いておいて、人間に対する犯罪を問題にして、そのことが描かれる。

 『「そのものが生まれてきたからという理由で人を殺す時、それは人類に対する罪である。」(中略)最初からレーニンとその同志は、「階級戦争」の立場を明確にし、政治的・イデオロギー的敵、或いは服従しない住民さえも敵と見なして扱い、容赦なく皆殺しにすべきだとした。ボリシェヴィキは自分たちの独裁政権に反対するもの、抵抗する者を、たとえ彼らが受動的であっても、法律的にも肉体的にも抹殺することに決めた。それは彼らが政治的に対立する集団である時だけでなく、貴族、ブルジョワジー、インテリゲンツィア、教会、専門的職業(将校、憲兵等々)などの社会的集団であっても同様で、しばしば彼ら全員を虐殺したのだった。』(P27-8)階級のジェノサイド。
 『体制の生んだ飢餓を検証することによって、多くの共産主義体制の一つの特徴が際立ってくる。体制は「飢餓の武器」を計画的に使って、手持ちの食糧の在庫をすべて管理し、しばしば極めて巧妙な配分方法によって、ある者には「褒美」として、他の者には「罰」としてそれを再配分した。このようなやり方が、前代未聞の飢餓を生み出すことになったのだ。一九一八年以降、何十万、何百万という死者を出した飢饉が、共産主義国だけだったということを思い起こしてみよう。』(P29)共産主義政権が使う「飢餓の武器」。
 1920年代末にGPUは割り当て制を実施。中央に決められた割合で『「敵」の社会的階層に属する者から一定の比率で逮捕、強制移住、銃殺をしなければならないとされた。』(P41)
 『常に攻撃の対象にされたのは個人よりもグループであった。テロルが目的にしたのは敵と決めたあるグループを殲滅することだったが、それは社会の一部にすぎなかったとはいえ、ジェノサイドの論理によってグループとして攻撃されたのだった。かくて「階級的全体主義」の差別と排除のメカニズムは、「人種的全体主義」のメカニズムに酷似したものとなった。将来のナチスの社会が「純粋な人種を基礎につくられなければならないように、未来の共産主義社会は、あらゆるブルジョワ的汚物から拭われたプロレタリア的民衆の上にうちたてられるべきだとされた。排除の基準は違っていても、こらら二つの社会の建設は同じように構想された。したがって共産主義がユニヴァーサリズム〔普遍主義〕と主張するのはまちがっている。たとえそれが世界的使命を計画に持っているとしても、ナチズム同様、共産主義は人類の一部を生存に値しないと宣言しているからだ。』(P43-4)
 1918年『九月十七日付の内部通達でジェルジンスキーは、すべての地方チェーカーに対し「手続きを早くし、懸案中の事件を終了させること、すなわち抹殺する」ように命じた。』(P166)それが始まってから二カ月で1万から1万5000の大量処刑が行われる。1825-1917年の帝政ロシアの政治分野での死刑判決を受けたのは6321人だが、そのうちのかなりの人が減刑されて懲役となっていた。そのことから考えても処刑者の多さがわかる。
 ボリシェビキ指導部にも処刑者の多さに論争があった。ブハーリンや内務人民委員ペトロフスキーは行き過ぎに歯止めをかけようとして、カーメネフチェーカー廃止を提案する。『しかし、まもなく無条件の支持派が勝利を収めた。それはジェルジンスキーのほか、スヴェルドロフ、スターリントロツキー、そしてもちろんレーニンといった党のトップたちであった。』(P172)
 ソ連。白軍はいるわ、飢饉を起こすわ、大量の強制徴用などのせいで緑軍(農民反乱軍)が出るわで、よく政権が早々につぶれなかったなと逆に感心する。
 多量の強制徴用に耐えかねて蜂起した農民反乱軍に対する処置の報告書。『われわれは40人の人質をとらえ、村に戒厳令をしき、村の住民に匪賊と隠匿武器を引き渡すために2時間の猶予を与えた。村人は集まって相談し、いかになすべきか躊躇していたが、しかし積極的に追い出し作戦に協力するとは決しなかった。きっと彼らは、人質を処刑するというわれわれのおどしをまじめにとらなかったのだろう。猶予時間が過ぎたので、われわれは21人の人質を村人の前で処刑した。全権委員、共産主義者の目の前で慣例にしたがって形式にのっとり、一人ひとり銃殺によって公開処刑にしたことは、農民に衝撃的な印象を与えた……』(P244)そういう処置をいくつもの村で行ったということが淡々と報告書に書かれているのが恐ろしい。
 トロツキストを追放したスターリンは農民との戦いを再開する。以前との違いは権力の力が強くなっていたこと。
 クラーク撲滅作戦。クラーク(富農)とされた人々、『貧しい農民が自分のつくったものを売っただけなのに「商業に従事している」という口実で逮捕された。』(P298)他にも教会によく行っているから、集団化に反対していたなどの理由で裕福でもない人もクラークとして強制移住させられた。彼らを強制移住させることで、天然資源に富んだ地域を開発させようとしていた。しかし撲滅されて強制移住させられた人数が非常に多く(1930年末までに70万人超、1931年末までに180万人超)、受け入れ側の準備も間に合わない。そのため『強制移住者は予備の食料も用具もなしに、多くのばあいには仮寝の小屋すらなしに、定住することを余儀なくされた。一九三〇年九月のアルハンゲリスク地区のある県からの報告は、移住者のために「計画された」一六四一戸のうち、出来上がっているのはわずか七戸だけ!であることを認めている。』(P308)そのように過酷な環境に捨てられた。ナジノ島のケースでは、5月末にトムスクから送られてきた6100人(と他の地方から来た500〜700人)のうち、8月20日までの生存者は2200名。
 そのように強制移住させた先で開発させるだけの準備もなされなかった。そしてクラーク撲滅作戦でクラークとされた人々から没収した財産は、クラーク強制移住に関する費用の半分程度に過ぎず、赤字だった。
 1950年代初頭、囚人労働が非常に効率の悪いものとなっていた。そのためスターリンの死後すぐに行われた120万人の囚人特赦は、政治的理由ではなく経済的理由もあった。
 またスターリン死後に、ナチスに協力したという口実で強制移住させられていた入植者が監視から解かれた。しかし財産返還や元の土地に買える権利は認められなかったので強制移住者は怒り、結局解体された自治共和国自治州の復活となる。そして自力で何とか帰っていく人も多く出た。
 ポスト・スターリン時代。多くの人が釈放されて、『北極圏とソ連極東の、資源開発と植民におけるグラーグのパイオニア的役割は、次第に消えていった。』(P491)