中世の村のかたちと暮らし

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 村落史。村の地形によって作られる農耕地(畠・田)が異なり、作物の生産性も変わることなどが書かれる。

 「第一章さまざまな生業」
 水田と一言にいっても、冬に水を抜き乾燥させる乾田と常に水気があり泥土の湿田がある。『乾田が日本全国に普及するのは、実は明治以降のことであり、(中略)近代以前においては、乾田が少なく、湿田の方が多かったと考えて良い。もちろん、これには地域差もあり、一般的には、乾田は西日本に、湿田は東日本に多いという事情があった。』(N396)そして『湿田は、乾田と違って、秋冬期に裏作を行うことはできず、稲の単作のみとなる。』(N396)
 畠地への賦課の変化。『もともと古代国家は畠地を把握の対象と見なさず、あくまでも公的な制度外のものと位置づけてきた。(中略)その後、平安末期頃から、畠地への賦課が浸透し始め、鍬や漆のみならず、雑穀に対しても収奪が行われるようになる。(中略)さらに南北朝期になると、(中略)畠地からの年貢収奪が一般化していたことが伺える。』(N642)

 「第二章 さまざまな村のかたち」では実際の例を見ながら、地形別の土地の性質の説明、どのような耕作地が作られていたのかといったことが書かれる。
 『確かに、中世において谷田は、山麓部の扇状地や乾田低地に次いで、非常に開田しやすい部分であった。それゆえ深い谷田型の村々の開発は、比較的早くから進むが、台地上の畠地は鬱蒼とした樹木におおわれており、孤立分散的な村落景観をなさざるをえなかったのである。』(N1192)

 「第三章 暮らしの諸相」
 『中世村落に置いては、男子は二部形式で小袖と袴を着用し、これに必ずといってよいほど折れ烏帽子をかぶっている。また女子は、ほとんどが一部形式の小袖の着流しで、巫女等の特例を除けば、男子のようにもを着す例はない。』(N1982)江戸時代には袴は武家のみが着用できるものとされたが、中世は男は皆つけていた。
 袴や烏帽子、貴族社会から武士に武士から中世村落へと広まる。烏帽子式も重要な成人儀式として村でされていた。
 『おそらく中世には民家の構造にしても礎石建てよりも掘立柱の建物が主流であったものと思われる。また床についても、多くは筵や蓙などが用いられ、床張りの場合でも、土座敷とともに併用されていたと考えて良いだろう。』(N2357)

 「第四章 村の労働と哀楽」
 中間得分『これは加地子得分とも称されるが、基本的には、中世後期に本年貢が固定化された結果、その分の在地剰余が、村落上層の地主の手元に集積され、村内部の階層分化に拍車をかけた。(中略)この加地子は、一三世紀頃までは本年貢以下もしくはほぼ同率だったが、一四世紀以降から増大し始める[永原:一九七三]。』(N2579)。その後太閤検地で『村レベルにおける中間得分を認めず、一地一作人という原則を確立して、検地帳登録者の身に年貢納入の責任を負わせた。』(N3228)そして『近世においては村落の内部に、それなりの格差をはらみつつも、中世にくらべれば、はるかに均質なものとなった。』(N3338)
 中世の小氷期と飢饉。『一四世紀頃から進行する寒冷化の温度差も、せいぜい平均で摂氏一度から一・五度程度で、こうした温度変化は気象学レベルでは重い意味を持つが、生物レベルにとっては、必ずしも絶対的なものではありえない。(中略)それぞれの時代においても、人々の気象の変化への質・量的な取り組みがなされていたはずで、農業技術や、その他の生産活動の面においても、適合的な対策が取られていたと考えるべきだろう。
 さらに植物学の立場から、辻誠一郎氏が注意を促しているように、植物自体も気候の変化に適応することを考慮するなら[辻:一九九三]、摂氏一―一・五度程度の気候の寒冷化が、そのまま飢饉に直結すると考えるのは単純に過ぎよう。やはり中世における災害の多くが、風水害や地震旱魃であったという事実を見逃してはならない。』(N2840)中世が小氷期という話はよく聞くけど、こういう話を読むとそれで大きな変化があったわけではなさそうだとも思う。