最弱球団 高橋ユニオンズ青春記

最弱球団 高橋ユニオンズ青春記

最弱球団 高橋ユニオンズ青春記

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 1954-56年、パ・リーグ8球団時代の3年間だけ存在したプロ野球チーム高橋ユニオンズ。弱いチームではあったが、『このチームにかかわった多くの物たちは、60年近い時を経た今でも、ユニオンズはいいチームだった」と口をそろえる。』(N68)ユニオンズに所属していた多くの選手たちに取材して、当時のチームの様子が描かれると共にこのチームの成立から解散までの経緯が書かれる。

 大映スターズ永田雅一オーナーはパ・リーグ総裁に就任して、彼はセ・リーグに対抗するために8球団制にするとぶちあげる。永田氏は映画製作会社大映の社長でもあり、「永田ラッパ」といわれる大言壮語で知られた人物。彼から頼まれて、大日本麦酒の元社長で戦前に存在した球団イーグルスのオーナーだった78歳の高橋龍太郎氏が新球団を設立する。永田氏は野球愛が強い高橋龍太郎口説き落とす時にパ・リーグの他7球団から一流選手を供出して、資金面でも支援することを約束した。その約束は全く守られることはなかったのだが、そうした言葉と大きな構想に乗せられて高橋氏は個人として球団を持つことになる。
 早速新球団設立早々に約束の有望株の選手が供出されず、獲得できたのは活躍しなくなったベテランが多く、一流選手や若手有望株の選手はなし。それどころか供出という約束であったのに金銭トレードで金を払わねばならないということになっていた。しかも後に知ったところ、約束した当の永田氏が『第八球団ができたら選手を売ってやってくれ』(N231)とそのように言って回っていた。
 高橋龍太郎オーナーは足しげく球場に通う。そして『ユニオンズが一人前のチームになるまで支援を惜しまないつもりであった。それは龍太郎の意地でもあったし、何よりも野球が好きだからこその情熱でもあった。』(N449)
 初年度は最下位必至といわれつつも53勝84敗3分(勝率.387)の成績を残して、8球団中6位となる。
 『オーナーである龍太郎のポケットマネーで球団運営を行っていたユニオンズは、一年目のシーズンを終えて深刻な資金難に陥っていた。公務員の初任給が8700円の時代に、チーム初年度、龍太郎の個人的な負担は5000万円をゆうに超えていた。54年11月30日には、渋谷区猿楽町の邸宅を売却し、目黒区上目黒に転居。翌年に備えて、なおも私財を投入する龍太郎と決意と覚悟の表れだった。』(N750)オーナーが自身の住居を変えて、資金を調達するほど大きな負担のチーム運営。
 永田パ・リーグ総裁は球団名を現在でいうネーミング・ライツをすることで資金を得ようと提案。親会社やスポンサーに頼らない独立採算を目指していた高橋龍太郎氏は苦渋の決断をする。そして55年シーズンはトンボユニオンズとなる。
 当初のリーグ全体での支援の約束は反故にされて、初年度に最下位を免れたことで、これで約束は果たしたという理解に苦しむ理由で冷淡な対応をとられる。『この頃から、龍太郎とその息子敏夫の中では永田に対する拭いがたい不信感が増していくことになる。』(N764)
 55年はチーム状態は一向に上がらない中で、間近に迫っていたスタルヒン投手の300勝が唯一の希望となっていた。
 55年のユニオンズは42勝98敗1分の最下位に沈む。そして55年限りでトンボのネーミング・ライツは終わって、56年には高橋ユニオンズに戻る。
 永田氏がパ・リーグ総裁になって導入された低勝率罰金制度(.350以下の勝率の場合、500万円の罰金を払う)。ユニオンズがろくに支援もされずに誕生した年に、そんな制度を作ってそれを新球団であるユニオンズに普通に適応するとは。
 56年は最終試合に勝利すれば、そのラインの上をいけることになったので最後の試合は相手チーム選手のタイトル・記録達成を援助しつつ、ユニオンズに勝利させることが互いのチームで暗黙の了解となって、八百長めいたものとなる。その試合が契機となったのか、低勝率罰金制度は廃止が決まった。
 永田パ・リーグ総裁は8球団制になったことでの戦力低下と過密日程、観客動員の減少などがあり、球団数を6球団に戻すことを決める。
 そしてユニオンズの解散は既定路線として決まる。最年長81歳の高橋龍太郎氏が頭を下げてもう一年チームを存続させてほしいと言っても、助け船がどこからも出されなかった。しかし6球団となるのにどこが合併するかでオーナー会議は紛糾して進まず、ひとまず57年シーズンは大映高橋ユニオンズを吸収して7球団となることになる。合併という建前にはなって、名前だけは大映ユニオンズとなったものの事実上解散。残った選手は下位の近鉄東映に数人ずつ移籍し、大映にはコーチ含め30名ほどが移籍、残りの選手は引退を余儀なくされた。
 結局最初から最後まで永田パ・リーグ総裁にふりまわされて終わった。野球好きで選手を愛していた高橋龍太郎オーナーがかわいそう。球団の解団式で、選手たちには大理石の置時計が送られ、龍太郎は選手一同からイギリス製のパイプが贈られた。『球団が消滅した後も、龍太郎はしばしばこのパイプを大事そうに磨いていたという――。』(N2171)