邪魅の雫

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

京極さんの本は、読みやすいから厚さも気にならない。
メインのキャラクターと犯人側との接触は、最後になるまでないので最後のほうまで事件の内側に入ってこなかったような印象。
戦争時に作られたという、毒薬の話があったので、塗仏の宴のように戦争の話が直接ストーリーにかかわってくるかと(僕は、気分が重くなるから戦争の話をなるべく読みたくないので)身構えたが、その毒薬の出自のところだけが戦争がらみで直接ストーリーに戦争の話があまりかかわってこなくてよかった。

人は見な、一人ひとり異なった世界を見て、見たものを異なった世間として理解しているはずである。それでも、誰もが自分の見ているものは他人が見ているものと同じだと思い込んでいる。思い込むのみならず、差異を認めないもの、差異が生じることを恐れいているものがほとんどである。(136p)

犯罪者はいる。法を犯したものは、遍く犯罪者である。しかし犯罪者の多くは、困った人であり、愚かな人であり、間違った人なのだ。
悪人ではない。(142p)

「読書にうまいも下手もないよ。読む意思を持って読んだなら、読んだものは必ず感想を持つだろう。その感想の価値はみな等しく尊いものなんだ。書評かだから読むのが巧みだとか、評論家だから読み方が間違っていないとか、そんなことは絶対にない」
(中略)
「いやいい書評というのは確かにあるんだが、それは論ずるのが上手というだけだ。論文として体をなしており、なおかつ読み手のことも考えて書かれた評は読み物として十分に面白い。要するに世評論とは面白い評論のことなのだ。取り上げた作品の絶対的価値を定めるような代物では金輪際ない」(253-254p)

――もう、駄目だ。
どう駄目なのかわからないまでも、そう思うことはある。
私も両々所で幾度となくそう思った。日本が駄目なのか、戦争が駄目なのか、体がもたないと思うのか。痛くてつらくて我慢できないのか、さびしいのか苦しいのか死にたいのか生きたいのか。何もかもない交ぜになって――。
 限界を迎えるせつなというのはある。
 世界を拒絶したくなる瞬間である。(606-607p)

「まともな人間など居ません」
 中禅寺はそう答えた。
「ただ自分がまともだと云う者は大抵まともじゃないし、まともな人間は己を疑うものです」