ブッダの人と思想

ブッダの人と思想 (NHKブックス)

ブッダの人と思想 (NHKブックス)

内容(「MARC」データベースより)
我がものという執着を離れて欲望を滅し、清浄行の実践を説く人間ブッダの説教とは。さまざまな原始経典からのことばを引用しながら、現代を生きる人びとへ、ブッダの心の内面をわかりやすく解き明かす。〈ソフトカバー〉

七章以降からのもう半分。興味深い内容で面白かった。引用多くてごめんなさい。長い期間をかけてちびちび読んでいたけどようやく読み終わったので、なるべく早めに『原始仏教』を読み始めよう。

ブッダの教法は、何かありがたい、特別な人生を生きる方法ではありません。詮ずる所自己浄化に尽きてしまうのです』(P119-120)『このように見てきますと、ブッダの教説は我執をはなれ、精神を統一し、慈悲心を抱いて修行すれば解脱に至るというものです。』こう読むと案外、説いていることは単純なものなんだな。仏教ってなんとなく難解というイメージがあったから。まあ考えてみれば、そういう風に目的とかすら難解なんじゃあ、そんな広まらなかっただろうしね。
ブッダの教説はこの人生の苦しみの超克をめざすことを説いたもので、この超克の実践に努める人を「道の人」といったのです。ブッダの教えは特別な知識や学問を教えることではありませんでしたので、「ウパニシャッド」の哲学を学ぶような弟子という観念はなく、ブッダのまわりに集った初期の入門者は、同じ道を歩む仲間、善き友といわれました。』(P126)考え方の根本は、特別なものではないというのは、今まで読んでいてわかった。ちょっと原始仏教に興味がわいてきた。考えだけでなく、実践も伴い、実践は普通はできないからそれは特別なのだろうが。『実践なき思想はありません。もし実践がなければ思想は空論となってしまうでしょう。仏教ではこれを「戯論」といいます』(P12)だから、「戯論」でなく「思想」を持つことはすごく難しそうだ。
『空とは一見、思索された思想上の言葉として受け取りがちですが、本来は空は実践の上に顕れるものなので、思索の対象ではありません。むしろ、そうした方法で把握されないゆえに、空というのです。』(P142)空、思索上のものでなく、実践の上に現れる。というものであるというのははじめて知った。まあ、そう考えたら確かに「空」の状態を具体的に想像しづらいな。
『無明煩悩は一度に克服して、解脱するのではありません。その場その場で常に選択を迫られながら生きているのですから、一瞬一瞬が解脱の場になります。いわば解脱し続けること、これが後生、修証不二、つまり、修行と悟りは一つのものであるということなのです』(P143)なんとなく、森博嗣さんの「天才というのは、ずっと天才であり続けることはなくて、たとえば、ニュートンは何歳から何歳の間に天才だった、とか言う風に使うのが本当だと僕は考えます。」(『森 博嗣のミステリィ工作室』P152)というのを思い出した、天才とか悟りはある期間の状態である、という考えは面白い。
『われわれの命は、大河に浮かんで消える泡沫であり、とるにたらないもののごとく思いますが、実は泡沫は大河のありのままの姿の一コマであって、大河と分離してあるわけではありません泡沫は大河のはたらきそのものなのであります。これと同じように、塵の一つであっても、この世界から分離して捨ててしまうことはできません。何故なら塵はこの世界の全てのものとつながりあっており、この世界そのものであるからです。』(P154)大河(世界)と泡沫(塵、我、人)という譬えはなるほど、と納得ができる。
ニルヴァーナとは現実世界からはなれた、超越的世界のことをいっているのではなく、日常生活の無欲の実践、無執着の実践にニルヴァーナは実現する』(P172-173)『後の時代になると、涅槃(ニルヴァーナ)とは、凡人の寄り付けない高度な心境のように受け取られますが、ブッダの時代には、煩悩の死滅したところ、不死の境地、安らぎ、寂滅を意味し、日常に生きた心境を表していたと考えられます。』(P174)『ニルヴァーナは、あくまで現世の目標であり、現世において実現すべきものであったといえましょう』(P179)ニルヴァーナ(涅槃)が「超越的世界」ではなく「日常世界」で実現することであったというのは、はじめて知った、すごく面白いことだな。
ニルヴァーナに入ったものは、肉体的苦痛からも自由になるのでしょうか。譬え解脱者といえども、病を患えば、苦痛もありましょうし、飢えや渇きからは肉体がある限り解放されえないでしょう。それで後世、生存のあるニルヴァーナ(有余涅槃)と、もはや肉体もなくなったニルヴァーナ(無余涅槃)との二つのニルヴァーナを考えるようになります。』(P181)『ブッダは自分の説いた真理ですら執着してはならないといましめているのです。ブッダは法とは、この危険な岸から、彼の安全な岸へ渡る筏のごときものである、彼岸へわたったならそれを捨てて先へ進めといっているのです。ブッダの教法にドグマはないというのは、このことであります。ブッダは法に依るべきことを教えましたが、その法はあくまで固定的なものではなく、教条的なものではありませんでした。この法は、可能性を含んだ法であり、無限の発展を内蔵しているほうであるといえましょう。』(P176)仏教は宗派がやたら多いのはそれが理由かな?