日本仏教史

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
同じ仏教でもインドとも中国とも異なる日本の仏教は、どのような変化を遂げて成立したのだろうか。本書では6世紀中中葉に伝来して以来、聖徳太子最澄空海明恵親鸞道元日蓮など数々の俊英、名僧によって解釈・修正が加えられ、時々の政争や時代状況を乗り越えつつ変貌していった日本仏教の本質を精緻に検証。それは我々日本人の思想の核を探る知的興奮に満ちた旅でもある。

ブッダの人と思想』と『原始仏教 その思想と生活』という原始仏教の本を読んで、今までイメージしていた仏教と違うので、日本の仏教のことも気になってきたので読んだ。今考えると、時代順に大乗仏教の歴史とかが書いてあるそういう本の方を先に読んだほうがよかったかな、という気がしないでもないけど。
ページの下方に注があって、いちいち後ろのページを探す手間がなくていい。
蘇我・物部の崇仏、廃仏の争い、『この争いも史実がどうであったかという点になると、どうもよく分からない』(P20)というのにはちょっとビックリ。
『今日、われわれは何々宗というと、仏教内において教理・信仰を異にし、独立した組織を持つ集団のことを考えるが、南部六宗の「宗」はむしろ学派、あるいは一寺院内に諸宗が同居して研鑽にはげむ様は、今日の大学における学部あるいは学科のようなものと考えたほうがよい。当時の記録によると、各宗はそれぞれ寺院内で独立した研究所をもち、そこには図書が備えられ、また各宗に縁の深い仏菩薩や祖師をまつった厨子が置かれていたという』(P51-52)そういうイメージなかったので新鮮。
大乗仏教、なんとなく中国で始まったと思っていたけど始まりはインドか。『ともかく近代以前においては、大乗仏典もすべてブッダが説いたということは当然の前提であった。』(P61)というのは意外。
『インド以来の経典では、末法は出てこない。また、正法・像法というのもあくまで正しい仏法、正しい仏法に似たものということで、直接には時代を意味する概念ではない』(P134)末法、本来の仏教の概念じゃないのかよ。
衆生のありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別に求めるべき悟りはない、というのである。それゆえ、もはや悟りを求めて修行する必要はなく、修行によって悟りを求めようとする立場は始覚門と呼ばれて、低次元の考え方とされる。さらに、それは衆生の次元だけの問題ではなく、草木国土すべてが悟りを開いているとされる。これは「草木国土悉皆成仏」といわれて、中世の謡曲などで愛好される』(P158)本覚思想、恐ろしく極端な考え方だな。でも、共感できちゃうけど。
浄土教法然『悟りの宗教から救いの宗教へ』(P212)
キリシタン時代に日本にやってきた宣教師は、最初は日本の仏教が東南アジアの仏教と同じ起源を持つ宗教とは気がつかなかったほどです。』(P338)それは無理がないなあ。