聖者の宇宙

聖者の宇宙 (中公文庫)

聖者の宇宙 (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
古代、中世から現在に至るまで、カトリックが認定した様々な聖者の逸話を辿りながら、誕生の過程とシステムを分析する。神と人の間をとり結ぶ聖者が各々に果たす役割を論じつつ、民衆の想像力や祈りの意味を問い質す「聖者論」の決定版。世俗と宗教のかかわりを再考する好著、初の文庫化。幸せを招く聖者カレンダー付。

キリスト教、聖者についてよく知らなかったから単なる偉人として考えていたけど、もっと重要な宗教的意味があるのか、と驚いた。それと『聖者の数は万を越す』(P52)ということにもビックリ。
『聖者たちはいったんローマ・カトリックの聖者の宇宙に入ってしまえば、イエスの「コピー」として大家族に参加するのだから、個々の違いはもう問われない。むしろ、その多彩さは、どんな信者にもそれぞれの希望や絶望の丈に見合った聖者を提供することができるという強みになっている。その意味では、カトリシズムは壮大な多神教なのかもしれない。しかも、ローマ教皇という現役の首長の手によって絶えず補強し、増幅し、操作することが可能な最強の多神教だ』(P16)
『一人の信者は何人もの守護聖者をもつことになる。パリの聖ロック教会の近くに、六月一日生まれのパンやジャンという男が住んでいるとしよう。フランスの守護聖女はジャンヌ・ダルクとリジューのテレーズである。パリの守護聖女は聖女ジュヌヴィエーヴ、聖ロックは教区の守護聖者で、パン屋の守護聖者が聖ミッチェル、自分の名前の聖者が聖ヨハネで、誕生日の聖者が聖ダヴィッドだ。ざっと数えても七人の守護聖者が付いている。人々は偏在する聖者に幾重にも取り囲まれて暮らしていたといってもいい。』(P86)神よりも身近な聖者たち。西洋はキリスト教がこんなにも身近なんだ、と今更だけど、こうした例で見ると本当にそうなんだなあと改めて思う。
『教会は、体制の維持のためには、協会がイエスの増殖する有機的な手足であり、キリストの花嫁でもあるという特権を独占せねばならなかった。だから、復活祭などの特別な期間を除いては、普通の信者がイエスの生を自分の生き方に重ねることを警戒した。その代わりに、イエスからワンクッションを隔てた「聖者の生き方」を信者のマニュアルとしてばら撒いたのだ。聖者の認定は教会の管理下にあったし、何よりも、聖者の列聖の基準には、生前の教会へ従順な態度をとっていたかどうかというのがあったので、信者の模範として理想的だった。その点イエスは彼の属していた当時のユダヤ社会の異端児であり革命的なカリスマであったのだから、教会が信者に薦めるモデルとしては危険をはらみすぎているといえるだろう。聖者は、こうして、カトリック世界に花開いていった。』(P178)一神教だと、神が遠いから、聖者が宗教の中でかなり重要な要素を占めているのかな、と思ったけど結構いろんな意味を持っているのね。
無宗教多神教に通じ、無神論一神教に通じるといえるだろう。』(P199)すごく納得のいく言葉、たしかに無宗教無神論とは違うよね。
『神秘体験はヒステリー性の幻視などではなく、臨死体験のヴァリエーションだったのかもしれない』(P222)おお、なんかすごく面白そう、それについて書いた本あるなら読んでみたい。
ユイスマンスは肉体の病を究極の審美的体験と見なして本気で憧れたのだ。彼は聖女ヒルデガルトの「恐ろしくもまた喜ばしい言葉」である「神は健康な肉体には住みたまわず」というフレーズを轢く。それは「健全な魂は健全な肉体に宿る」というギリシア的、ルネッサンス的な価値観のアンチテーゼだ。すべての病気は贖罪で、贖罪とは神に帰っていく運動だから、病み苦しむ人が最も神に近いところにいることになる。』(P302)健全な魂〜云々は嫌いな言葉だから、「神は健康な肉体には住みたまわず」という言葉は良いね。