日本の歴史をよみなおす(全)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
日本が農業中心社会だったというイメージはなぜ作られたのか。商工業者や芸能民はどうして賤視されるようになっていったのか。現代社会の祖型を形づくった、文明史的大転換期・中世。そこに新しい光をあて農村を中心とした均質な日本社会像に疑義を呈してきた著者が、貨幣経済、階級と差別、権力と信仰、女性の地位、多様な民族社会にたいする文字・資料の有りようなど、日本中世の真実とその多彩な横顔をいきいきと平明に語る。ロングセラーを続編とあわせて文庫化。


語りかけるような文章なので非常に読みやすかった。


「日本の歴史をよみなおす」
地方に行って、その土地の言葉はわからなくても、そうした地方の古文書がどうして読めるのだろう、と疑問に思ったというエピソードは、そういわれてみれば確かに不思議。
片仮名は口語でいわれた言葉を言い表す文字、で「中世前期には神仏にかかわりのある場合が多かったので、神仏にかかわりのある文書に片仮名が多く見られ」る。
『禅僧や、それに結びついて入ってきた儒学の学者は、江戸時代になっても片仮名を多くつかっています。しかし江戸時代、片仮名は庶民の間では、特別な場合にしか使われない文字だったことは間違いないと思います』(P30)戦前は片仮名の文章だったから、それ以前も片仮名主流だと思っていたからとても意外。
「非人」、聖なるものから「穢多」へ、職能集団から身分外身分の集団へと変わる過程についても興味深い。
『明治以後の統計で見ても、東日本の被差別部落は西日本に比べると数も少ないし、人口も少ない。体験的に行っても、私自身は山梨の出身ですが、この問題についての経験は、中学生になって『破戒』を読んだときがはじめてで、最初はなんのことかわからなかったのです。祖母に聞いてはじめて、一応知ったという程度から出発しています。
 これに対して、西日本の場合、友人に聞いてみますと子どもの頃から、色々な深刻な経験をみな持っています。』(P141)著者の年代でもそうなんだから、被差別部落について実感が持てなくても当然かな。
昔の日本の性のあり方については、現在の価値観から見るとなかなか受け入れがたい、そのせいで面白いんだろうなとは思っていても「忘れられた日本人」が読もうという気がなかなかわかない、今年中は無理でも来年の早いうちには読みおえていたいなあ。
日本の古代社会、『母系にせよ父系にせよ、日本の社会には存在しなかったので、双方的あるいは総系制の親族組織、親族の成員権が男女両方の系統で承認されえるような親族組織だったと考えられています。それゆえ、日本の社会では近親婚に対するタブーが極めて弱いわけです。』(P170-171)だから昔の天皇家の家系とかやたらわけがわかんなくなってんのか。
『ところが、実は鎌倉時代天皇上皇は、王朝国家の中では明らかに権力を持っています。天皇親政の時期もしばしばありますし、貴族の世界の中では「治天の君」――「天皇職」を掌握した人の発言権は非常に強くなっています。ですから摂関政治院政期をよく天皇不執政の時代といいますが、これはまったくの誤りといってよいと思います。』(P209)意外。


「続・日本の歴史をよみなおす」
百姓≠農民、百姓と呼ばれている人には商人、回船問屋、鍛冶屋、大工などなど色々な職種が含まれているということは、飯嶋和一さんの「始祖鳥記」で、『私のところに晒木綿を送ってまいります尾州知多の伝蔵と申す船頭は、水帳(検地帳)の上では、たかだか一反ばかりの田しか持たぬ細民ということになっておりますが、その者が、一航海に二千両からの大金を平気で動かします。』(「始祖鳥記」P395)とか書かれていたので水呑と呼ばれている人の中にはそういう人がいたということを知ったけど、例外的なことだと思っていたので。江戸末期に作られた『防長風土注進案』での山口県の上関では『百姓の中の農人は少数で、商人、船持ち、職人の数の方がはるかに多い』(P252)というのには、そういうのは例外的な少数の事例ではなくそんなに多くいたのかと驚いた。
『実態は都市でも大名の権力とかかわりのない都市はすべて制度的には村と位置づけられています。
 村にされれば、自ずから検地が行われ、田畑、石高を持つものは百姓、持っていなければ水呑のみ文にされますので、村であるから農村だと思いこむと、先ほどのようなとんでもない大間違いが起こるわけです。江戸時代の「村」は、決してすべてが農村なのではなく、海村、山村、それに都市まで含んでいるのです』(P256)
列島東部は北方からの文化が流入していた、というのは聞いたことあるけど何となくわずかな伝播だとおもっていたら『列島東部の文化は、稲作を受け入れつつ、独自な文化を明らかに発展させており、西が先進で東が後進などとは簡単にいえません。東に先進的な要素も大いにあるので、それが国家の成立以後の歴史にもはっきり反映していきます。』(P283)『北周りで入ってきた製鉄や鋳造の技術もあったのではないか、と言う考え方が最近かなり有力になってきました。列島西部とは明らかに炉の形が異なる製鉄が、かなり早い時期から、東北、関東で独自に行われており、しかも西では砂鉄からの製鉄であるのに対して、東の製鉄は鉄鉱石からではないかということも考えられています。鋳造も同様で、東北南部に九世紀ごろの鋳造の遺跡が発掘されており、能登半島の鋳鉄も平安時代から知られています。』(P288)と思ったより色々なものが北方から伝わってきていたことに驚き、北方の文化の影響が少ないものだと思っていたのはなんとなく「西が先進で東が後進」という常識にとらわれていたせいかな。
『金融業者、商人、海の領主、山の領主の組織が「悪党」といわれた』(P351)「悪党」という言葉だけでは、金融業者や商人はイメージできないなあ。
『われわれ自身の、戦争中から敗戦後にかけての経験からいっても、実際に食料をつくっている地域はそう飢えるものではありません。そこから切り離されて食料を購入していると市民がまず干上がるのは、考えてみれば当たり前のことです。
 そうなりますと、江戸時代の三大飢饉とされている享保天明天保の飢饉、東北に餓死者が大量に出たとされている飢饉も、単純に東北が貧しいからだとはいえないのではないでしょうか。農村地帯に壊滅的な飢饉がおこったと考えてよいかどうか、この点は徹底的に再検討の必要があると思うのです。つまり東北は、意外に都市的な性格を持つ地域だったのかもしれません。だからこそ、作柄の不況によって決定的なダメージを与えられた可能性も十分あります。』(P386)考えたことなかったけど、実際そうだとしたらすごいイメージの転換だ。興味深い。