武士の家計簿

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

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東京・九段の靖国神社に立つ「大村益次郎」像の建立に力があったのは、加賀前田家の「猪山成之(しげゆき)」という一介のソロバン侍だった。幕末の天才軍略家と一藩の会計係の間に、どのような接点があったのか。「百姓」から軍略の才一つで新政府の兵部大輔に上りつめた大村と、ソロバン一つで下級武士から150石取りの上士にまで出世した成之の出会いは、いかにも明治維新を象徴する出来事だが、著者は偶然発見した「金沢藩猪山家文書」から、その背景をみごとに読み解いている。
猪山家は代々、金沢藩の経理業務にたずさわる「御算用家」だった。能力がなくても先祖の威光で身分と報禄を保証される直参の上士と違い、「およそ武士からぬ技術」のソロバンで奉公する猪山家は陪臣身分で報禄も低かった。5代目市進が前田家の御算用者に採用されて直参となるが、それでも報禄は「切米40俵」に過ぎなかった。しかし、120万石の大藩ともなると、武士のドンブリ勘定で経営できるものではない。猪山家が歴代かけて磨きあげた「筆算」技術は藩経営の中核に地歩を占めていく。

本書のタイトル「武士の家計簿」とは、6代綏之(やすゆき)から9代成之(しげゆき)までの4代にわたる出納帳のことである。日常の収支から冠婚葬祭の費用までを詳細に記録したものだが、ただの家計の書ではない。猪山家がそれと知らずに残したこの記録は、農工商の上に立つ武士の貧困と、能力が身分を凌駕していった幕末の実相を鮮明に見せてくれる。220ページ足らずとはいえ、壮大な歴史書である。(伊藤延司)


内容(「BOOK」データベースより)
「金沢藩士猪山家文書」という武家文書に、精巧な「家計簿」が例を見ない完全な姿で遺されていた。国史研究史上、初めての発見と言ってよい。タイム・カプセルの蓋を開けてみれば、金融破綻、地価下落、リストラ、教育問題…など、猪山家は現代の我々が直面する問題を全て経験ずみだった!活き活きと復元された武士の暮らしを通じて、江戸時代に対する通念が覆され、全く違った「日本の近代」が見えてくる。

映画化されて話題の本、先に文庫の「殿様の通信簿」を読もうと思っていたがちょうどアマゾンに在庫がなく近所の書店でおいてあったのはカバーが少し破けていて買う気がしなかったから、こちらを先に読了。
『さらに加賀藩のおもしろい点は、猪山家のような御算用者を縦横に活用して政治を行った点である。まず、御算用者をつかって徹底的に百万石の領地を測量した。普通の藩ならば一度や二度でやめてしまう手間のかかる測量を念入りに行っている。それだけではなく、算術に長けた御算用者を集めた御算用場に、財政ばかりでなく国内の民政をも差配させていた。普通は、まず群奉行(民政機構)があって、そこに会計部門が作られる。ところが、加賀藩では、まず巨大な会計機構(御算用場)があって、そのなかに群奉行(民生部門)がつくられていた。普通の藩では、政治が会計を行うが、加賀藩では会計が政治を行っていたのである。』加賀藩、江戸時代に数学の価値を知ってちゃんと実用的に利用していたのはすごい。
加賀藩士の場合、実子が家を継ぐ割合は五七・六%にすぎず、弟・甥などが家を継ぐ場合が七%、養子・婿養子が家を継ぐ場合が三五%であったという』実子が家を継ぐ割合が異常に低いなあ。
幕府の制度では一俵=三斗五升(〇・三五石)だが、加賀藩の場合一俵が五斗(〇・五石)だったので出世をして、切米五〇俵から知行七〇石になっても、七〇石の内「藩士がそこから得られる貢物収入は二二・五石(三二・一%)ほどであった」のでかえって収入が減ったということにビックリ。今まで、何俵で貰うほうが圧倒的に収入が少ないと思っていたので。
『江戸時代の結婚は長くは継続しないものである。宇和島藩士の結婚カップル五十六組を追跡すると、わずか三年で二十組が離死別していた。二十年も継続した結婚は四分の一にすぎない。』(P93)というのは、民衆はともかく武家社会は離婚とか少なそうだと思っていたので確かに『我々が漠然と抱いている「封建的な」武家女性のイメージと実態は「随分ちがう」』(P93)。
『一般には、あまり知られていない事実であるが、江戸時代の人々は、向こうから「袴をつけた人物」が接近してくると、お辞儀・土下座などの心の準備をはじめるものであった。袴は強力な身分シグナルであり、袴をはいている人物には無礼を働いてはならず、無礼を働けば斬られる可能性があったことを示していた』(P119)
『袴は世襲の武士=武家をあらわすものであり、苗字や刀よりも重要な身分シンボルであった。武士であっても足軽や同心のような一代限りの下っ端には許されない衣服であり、袴は「憧れの衣服」であった。』(P119-120)苗字や刀よりも袴が重要な身分シンボルだったということには、知らなかったのですごく驚いた。