後白河法皇

後白河法皇 (講談社学術文庫)

後白河法皇 (講談社学術文庫)

出版社 / 著者からの内容紹介
中世成立期に屹立する<日本一の大天狗>
武士にとって常に敵役だった<偉大なる暗闇>の実像とは。王権の転換・再生を軸に文化創造の場や精神史の暗部にまでわけいり、政治的巨人が構想した世界を探る。
内容(「BOOK」データベースより)
源頼朝に対抗し、守旧勢力を巧務に操った老獪な“大天狗”。はたまた『梁塵秘抄』を編纂した粋狂な男。後白河がいなければ、天皇制は存続しなかったかもしれない。古代王権を中世王権へと再生させるために、法皇は何を考えていたのか?王権の機能を再編成し、文化情報の収集・独占と操作の意味を透視した天才の精神に迫る。

後白河は、〈偉大なる暗闇〉であり、頼長は〈偉大なる偏執狂〉であった。信西は〈斜に構えた俗物〉であり、頼朝は〈端正で偉大な凡人〉であった。兼実は〈独語癖のある若年寄〉、慈円は〈夢想癖のある難解な哲学者〉であった。清盛はどう呼べばいいであろうか。ともあれ、平安末〜鎌倉初期の内乱の政治史は、これら聖俗さまざまな人物群像が織り成す狂詩曲、《祝祭の日々》であった。(P110)


『多くの読者は中学・高校の日本史教育やこれらの論文・評伝をつうじて、ある固定したイメージをもってしまっているのではないだろうか、すなわち、源頼朝と地方武士の社会変革に大公使、守旧的立場から対立する諸勢力を巧妙に操った〈大天狗〉、理念なき老獪な策謀家というイメージである』(P44)たしかにそんなイメージだなあ。
「第一章 後白河法論序説」頼長、信西、後白河という三者の人物評。
『頼長は自力で、内発的に、朱子学宋学の学問精神を獲得しつつあったのだ。朱熹と頼長はわずか一〇歳のちがい、日本・中国は違え、この二人の虚勢は確かに同時代の空気を吸っていたのだ。
 いずれにせよ、頼長は、はるかに時代を超越していた。かれが歴史の闇に消えたとき、日本社会は一つの思想の≪可能性≫を自らの手で葬ったのだ。』(P63)知識人としての頼長の評価めちゃくちゃ高いなあ。
践祚・即位後の親政の期間は擁立に暗躍した乳父(乳母の夫)信西が政策立案・推敲の全般をリードし、”後白河親政”というよりは”信西親政”(信西政権)の性格が強かったことなどは周知の事実だ(だから、「後白河が信西を重用した」というよりは「信西が後白河を傀儡にして”自己実現”をはかった」といったほうが正確だ)』(P94)今まで「後白河が信西を重用した」と思っていたわ。
二章、三章は個人的に法とか国家組織とかの話は、正直読んでいてわけわからんので読み流してしまった。いつか興味がわいたら再度挑戦しよう。
「第四章 『参天台五山記』――日宋交流史の一断面」は、こういう東アジア世界のつながりの話は興味あるので読んでいて面白かった。