幸福について

幸福について―人生論 (新潮文庫)

幸福について―人生論 (新潮文庫)

真の幸福とは何か? 幸福とはいずこにあるのか? ユーモアと諷刺をまじえながら豊富な引用文でわかりやすく人生の意義を説く。

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ショーペンハウアー、読むの2冊目。人生論、あまり興味のある話ではないが久々にショーペンハウアーを読もうというのと安いので買った。特に感想はなし、ちょっと気に入った部分を抜粋。

陰気が他の人間、すなわち陰鬱なくよくよした性格の持ち主は、朗らかな呑気な性格の持ち主に比べると、想像上の災難や苦悩を多く経験させられはしても、現実の災難や苦悩を嘗めさせられることはむしろ少ない。なぜかというに、万事を悲観的に見て、絶えず最悪の場合を気遣い、したがって適当な予防策を講ずる人間は、いつも朗らかな展望を添えて事実を眺める人に比して、誤算をしていたということが少ないであろうからである。(P32)

われわれの身体が衣服にくるまっているように、われわれの精神は嘘にくるまっている。われわれの言辞・行動、われわれの態度全体が嘘なのである。この外被をつき抜けてこそ、時にわれわれの本心のイデオロギーを推測しうるが、それは、衣服の内を見透かして身体の形を推測しうるのと同様である。(P211・原注)

誰しも自分以上のものの見方はできない。というのは、誰しも他人を見ては、同時に自分自身のあり方でもあるようなあり方しか見えないものだという意味である。自分自身の知力に応じて他人を理解しうるに過ぎないからである。ところで自分の知力が最も劣等の部類に属しているとすれば、他人の持つどんな精神的才能も、たといそれが以下に偉大な才能であっても、自分に働きかけてくるよしもない。こうした才能の持ち主を見ても、自分はその人の個性のもっとも低級な面、すなわちその人の持つ全部の弱点、気質や性格の欠点しか認めないであろう。その人はこうした弱点や欠陥からなる人と映ずるであろう。盲にとっては色が存在しないと同様に、自分にはその人の持つ高級の精神能力は存在しない。およそ精神は精神をもたない人の目には見えないからである。およそ価値の評価は評価する人間の認識視野に伴って、評価を受ける人間の価値から生ずるものである。(P267)

不合理なことが民衆の間に、あるいは社会において語られ、著書に書かれて堂々と取り上げられ、少なくとも論難の対象とはなっていないことがあるが、およそそういう不合理に接した場合、絶望的になって、結局いつまでもこのままなのだろうと考えるのはよくない。そうではなく、問題は後になってぽつぽつ再検討を受け、正体を明らかにされ、熟考を加えられ、論究の的となり、大抵の場合は結局正しい判断がくだされるのだから、問題のむつかしさに匹敵するだけの期間が経てば、かつて一人の明敏な頭脳が直ちに看破したところをついにはほとんどすべての人が理解するようになるのだということを知って、それで心を慰めるがよい。とはいえそれまでは辛抱する必要があることはいうまでもない。愚鈍化された人たちの間に一人正しい洞察を持つ人がいるのは、教会という教会の塔の時計が全部間違った時間に合わせてある町の中に一人だけ正しい時計を持つ人がいるようなものだ。その人だけは正しい時刻を知っている。だがそれが何になろう。世間の人がみな間違った時間を示す町の時計に合わせて生活している。その一人の男の時計だけが正しい時刻を示すことを知っている人たちまでが、町の時計に合わせて生活している。(P272-273)