平安の春

平安の春 (講談社学術文庫)

平安の春 (講談社学術文庫)

出版社/著者からの内容紹介
藤原氏栄華の礎(いしずえ)を築き、数々の美徳をそなえた好人物とされる師輔(もろすけ)の真の姿を浮彫りにし、専制君主白河法皇の激しくも淋しい生涯に迫る……。後宮の栄光に溢れた優麗典雅の生活あり、争いに敗れ鄙(ひな)に隠栖する悲しき女性も垣間見える。平安の都を舞台に繰り広げられる人間模様を、多くの文献の読み込みと深い洞察で語る学術エッセイ。


最近鎌倉時代についてちょっと興味がわいてきているので、その前の平安時代についても合わせて読もうと思い読む。エッセイって書いてあったから軽く読めると思ったら案外読むのに時間かかった。第一部の「紫女と清女」「『源氏物語』と北山」「清少納言平安京」という平安女流文学の話は面白かった。「院宮の女房たち」宮中に仕える官女の官位の話、官位についてあまり興味がないので、正直よくわからんかった。たとえば宮廷から中宮に派遣された人と中宮の父、道長から派遣された人と公的・私的の官女どちらであっても棒給は官から払われて官位は貰えたし、昇進しやすさは違っても昇進出来た、ということしかわからんかった。
『『古事談』には、晩年の清少納言がひじょうに落魄し、西京の方で、侘しい生活を送っていたなどと伝えられている。これは才女の末路を面白く描いた虚構であって、真実ではない。彼女には、少ないながら終生、位田が与えられていたはずであるし、息子の橘則長越中守などを歴任し、受領として豊かであった。娘の小馬命婦は、上東門院女房として羽振りがよかった。若いころに彼女と信仰のあった藤原斉信は、大納言、行成は権大納言、源経房は権中納言と、いずれも政界の大物となっていた。これらのうちどの人も、清少納言が貧窮したとすれば放置しておかなかったはずである。』(P57)
清少納言は、晩年になって零落した。あるとき、若い殿上人たちが、西京にある彼女の詫住居の前を通って眺めると、舎屋はいたく破損し、哀れな有様であった。そこで公達は、「少納言も落ちぶれたものだなあ。」と、牛舎の中で語り合った。
 家の桟敷にあって、この話を漏れきいた清少納言は、さっと簾を上げ、鬼形の女法師のような顔を指し出し、「駿馬の骨をば買はずやありし。」と公達を一渇したという。
 これは『古事談』(第二)に見える有名な話である。確かに清少納言は、憂愁の晩年を送ったのであろう。中関白家は没落したし、兄の為成には先だたれ、致信は横死を遂げた。しかし、こうした精神的な不幸を経済的な逼迫とすり替えてはならない。
 本文にも記したように、晩年の清少納言は、経済的には零落しては居なかった。彼女に位田があったし、息子も娘も中流の貴族として活躍していたのであり、彼女が荒屋に敗残の余生を送ったなどというのは、まったくの作り事であり、考慮のほかである。』(P70)
 清少納言、晩年に零落したという説、この説昔見たことあるけど、真偽どっちだったか忘れてたけど誤りだったか。
白河上皇は、前記のように「後三年の役」を義家の私闘とみなし、恩賞を沙汰されなかった。この乱より十一年もたった承徳二年(一〇九八)十月、白河上皇は、長年の武功に免じて、義家の院の昇殿を許されたが、廷臣たちは当時ですらこの聴許には反対だったという(『中右記』)法皇は、この好餌によって義家を手なずけようとされた。そして「天下第一の武士」と称されていた義家は、法皇の優遇に感激することはあっても、東国に扶植した在地武士団の勢力を結集して、院政権に対抗しようなどとは、いささかも意図しなかったのである。』(P160)義家、「院政権に対抗しようなどとは、いささかも意図しなかった」というのは不思議だ、報酬少なく感じるのに。