ツチヤ教授の哲学講義

ツチヤ教授の哲学講義―哲学で何がわかるか? (文春文庫)

ツチヤ教授の哲学講義―哲学で何がわかるか? (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
大哲学者たちが考えたことを信用できるでしょうか?いつもはあまり信用されないツチヤ教授が挑戦的にこう問いかけた。不信感を抱く学生を前にして、プラトンデカルトなどに代表される哲学史に輝く深遠な学説に、誰にでもわかりやすい言葉で鋭く切り込み、哲学の初心者たちと共に一から考えた渾身の講義。

すごい面白くて、納得しやすい。たいていの形而上学は、ふだん使っている言葉を狭くとらえて、その狭くしたひとつの要素こそがたとえば真の「時間」といって、普通つかっている「時間」は本当の時間ではないといってたりするけど、それは「常識の誤りを正しているのではなくて、実質的には、日常的なことばづかいに反対することになる」だけで哲学の問題でなく国語的な問題だ。第1週では有名な哲学者の誤りを判りやすく指摘しているのはすごい。第2週でのウィトゲンシュタイン言語ゲームやらの話も難しいけど面白い。哲学の問題のほとんどは言葉の規則によって知ることができないという解決はすごいな。今まで呼んだ中の考え方についての本の中でいちばん衝撃受けた。必ず再読しよう。

「見る」ということばでわれわれが何を理解しているかを調べ、われわれがAとBとCの三種類のものを見ると呼んでいることが分かったら、AもBもCも対象とするのが「見る」ということなんだ、と理解しなきゃいけないし、そのことがすべての出発点にならなきゃいけない。「見るとはどういうことか」を解明するというためには、AもBもCも全部、見られるものの中に含まなければいけないと思うんです。ぼくらは、「見る」ということを、A、B、Cの全部を含む形でしか理解していませんからね。
 でもデカルト現象学者は、BとCは見るとは言えないと主張するんですから、何を「見る」ということばで理解すべきか、というそもそもの出発点に立つことを拒否しているんです。だから、彼らはまったく見当違いのものを解明しようとしているか、あるいはたんに「見る」ということばの使い方を、一部に制限しようとしているだけとぼくにはおもえるんです。彼らが考えているように、世界の真相を究明しているとはとても思えない。(P141)

だからどんなものについても本質を文の形で述べることはできません。それじゃないんです。さらにウィトゲンシュタインは、美、善悪、人生や世界の意味などについても知ることはできないと考えています。これらは事実を越えているからです。何故事実を超えているといえるのかは説明していませんけどね。ぼくもそういう問題はふつうの事実を越えていると思っています。でも、ここではそれを説明する余裕がないので、かりにそうだと考えてくださいね。それで、彼は、ふつうに知られる事実を超えるものについては、すべて語ることはできないと考えて、「語りえないものについては沈黙しなくてはならない」といっています。われわれにできるのは、せいぜい、いろいろな事実を追加して、ものごとの本質や、事実が成り立っている問はどういうことかを、「示す」ことだけだというんですね。
こうして、ウィトゲンシュタインは、本質も善悪も価値も事実も、知ることはできないものだと考えました。つまり哲学的なことがらについては知ることができないと考えました。これは人間の能力がたまたま不足しているからではないんですね。言語の構造によって知ることができないし海になっているという結論に到達したんですね。哲学によって知ることができないなら、それについて問うこともできないはずです。絶対に答えることができないような問題は、「問題」とは呼べないからなんですね。
 だから、哲学の問題は問題として成り立たないんですね。われわれは「ふつうの知り方」しかできない。日常的なことを知るか、科学的な知識を得ることしかできないことになります。
 でも、勘違いしないで欲しいんですけど、ウィトゲンシュタインは、哲学に何の価値も内とか、科学さえあればいいと考えていたわけじゃないんです。むしろ、科学を超えたものこそ重要だと考えていたと思います。でも、皮肉なことに、その一番重要なことは、原理的に知ることができないという結論に到達しているんですね。(P299-300)