源平合戦の虚像を剥ぐ

源平合戦の虚像を剥ぐ (講談社選書メチエ)

源平合戦の虚像を剥ぐ (講談社選書メチエ)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
屍を乗り越えてすすむ坂東武者。文弱の平家の公達。こうしたイメージは本当なのだろうか。騎馬戦の不得手な武士、兵粮徴発をこばむ百姓…。「平家物語史観」に修正をせまり、内乱が生んだ異形の権力=鎌倉幕府の成立を鋭く解明する。

「やる夫 鎌倉幕府」の作者さんは「【◆OSXMqpvhvA】MMR極東支部第1会議室【やる夫鎌倉】」で「空想科学読本程度に捉えておいた方がいい」とあったけど、一応読んでみた。
読んだのは、選書の方で。
武士は、『地方の農村に豪族や有力農民のなかから領主が生まれ、領主が開発所領を自衛し農民を支配するために武装して武士となった』(P25)のではなく『武士は、九世紀に狩猟民集団から組織された弓馬の精兵に源流を持ち、十世紀に編成された弓射騎兵の党的軍事集団を直接の前提として、王朝国家・諸国我の軍事警察機構と不可分の関係を持って登場したのである。』(P28)というのは、以前どっかで読んだことがある気もするがポロポロ忘れてしまうので、とりあえず書き抜き。
『弓馬で武装した反逆者集団である群党(党類)の蜂起が大規模かつ組織的に展開し、それが九世紀末から十世紀にかけて深刻な軍事問題として浮上したのである』(P27)その群党に対応するために同じような集団を作ったというが、その群党からの流れは一体ドコにいったのか、ちょっと気になる。
「城郭」(堀や掻楯・逆茂木)で石弓を利用した戦闘の事例がけっこうあり、『これまで楠正成の専売特許のように語られ、鎌倉末・南北朝期に特徴的な戦闘法と理解されてきた石弓の配備は、実は平安末・鎌倉初期には一般的な戦闘法としてあらわれていた』(P87)
平家のそま工の動員は、戦闘員としての動員ではなく、そうした「城郭」を作るための工兵隊だった、というのははじめて知った。
引用されていた史料を見て思ったんだけど、『大庭景親また申して云わく、「されば主に非ずとは申さず。但し昔は主、今は敵、弓矢を取るも取らぬも、恩こそ主よ。当時は平家の御恩、山よりも高く、海よりも深し。昔を存じて、降人になるべきに非ず」と申しける』(P139)「山よりも高く、海よりも深し」というのは当時は一般的な言い回しだったのかなあ。