農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「海を越えてやってきた渡来人が、縄文人にかわり、西日本を中心に新しい文化を築いた」という一般的な弥生時代のイメージ。しかし、稲作の導入を契機とする日本列島の歴史の大きな分岐点は、もっと緩やかにして多様なものであった。縄文から弥生への連続性と、地域文化の豊かさに注目しつつ、「複線」としての歴史像を新鮮に描きだす。

考古学の本は読んでいるうちによくわかんなくなるし時間もやたらとかかるので、一つの事柄に対して色々な考えを扱ってくれているので、思っていたよりも読みやすかった。
縄文時代は約一万年もの長期間に及ぶものの、「縄文文化が一万年間永続した」と考えるのは適切でなく、「完新世の日本列島に現われた新たな生態環境に適応した諸地域文化を、緩やかに縄文文化とくくって理解する」というべきである。』(P42)なるほど。目から鱗
縄文文化弥生時代の文化を、本質的に異なる文化と認識すること事態が実体とそぐわないのではないだろうか。かつて、縄文後・晩期と弥生前期以後の文化に大きな差異が認められたのは、その間をつなぐ縄文時代晩期後半もしくは弥生時代早期の段階の史料がほとんど知られていなかったからである。最近二〇年の発掘によって、九州ではこの段階の史料が蓄積されてくると、明瞭に連続することが分かってきた。』(P48)連続しているというのは知らなかった、考えてみれば不思議でもないことなんだろうけど、どうも断絶があったというのを無意識に前提としていたみたいだ。『戦前は縄文時代の文化の担い手と、弥生時代文化および古墳時代文化の人びとは、まったく異なる人間集団、というよりも異なる民族集団とみなす説明がされてきた。』(P48)僕の認識は戦前並だったのか……。
弥生時代遺跡出土の植物遺存体を集計したところ、報告遺跡件数で最も多いのはなんとドングリで、イネは第二位であり』(P70)弥生になってもドングリの比率がそんなに多いのは意外だ。
『考古学的にみて、弥生中期〜後期に北部九州で最有力であった地域は奴国と伊都国の領域であるにもかかわらず、伊都国が「世々王あるも、皆女王国に統属」したことから、邪馬台国所在地には九州以外のいずれかの地域を考えざるをえないとみる』(P205)実は畿内説読んだのはこれがはじめて(たぶん)。