平清盛 福原の夢

平清盛 福原の夢 (講談社選書メチエ)

平清盛 福原の夢 (講談社選書メチエ)


内容(「BOOK」データベースより)
平氏系新王朝を夢見てあらゆる手段を尽くした男、清盛。なぜ福原でなければならなかったのか?『源氏物語』須磨・明石巻との相似性、六波羅幕府鎌倉幕府成立との連続・不連続、福原の地形的意味、遷都の政治的意味と抵抗勢力との角逐など、第一人者ならではの多角的アプローチで、誰も書かなかった大いなる野望に迫る。

うーん、こういう本はメモを取って勉強しながら読まなきゃいけないんだろうなあ。何もせずにただ流し読むだけではいけないとは分かっていても、どうも億劫で結局いつもあまりえるものも少なく読み終えてしまう。量を読むよりも、しっかりと内容を理解するように最善を尽くしながら読んだほうがいいのだろうが、そういう意識で読むとなるとなかなか手に取るのが面倒になってしまうから、小説のようにただ流して読んでいて興味を持ったところだけ面白がっているだけでは駄目だとはわかっているんだが、この本は個人的にはわかんないところばっかりだったのでひたすら時間だけ食ってしまい、反省してしまう。というよりも、こうした本を読むよりも前に小説を読んだほうがいいのかな。小説はもし好みじゃないと、読むのが辛いばかりだから歴史小説はあまり読んでいなかったけど。
『しかるべき存在がしかるべき方法で身分的な認知をうける以前は、彼はまだ武士ではなく、たんなる武に堪能な存在に過ぎない』(P41)
『平家にとり内裏警護を主催するのは、自らが王権の守護者であることを周知させる政治効果がある。一方、動員される側の地方武士にとって、大番で上洛する行為にどんな意味があるのか。実は鎌倉御家人の京都大番は、鎌倉殿からの反対給付の無い奉仕だった。それでもこれを勤めたのは、自らを御家人と主張するものにとって身分のあかしになったからである。その事実を前提として、青山幹也氏は御家人にとって京都大番は「武士身分の確保のための権利=義務であった」と、踏み込んだ解釈をしている。平家の大番衆が、「一期ノ大事」または「晴」の機会と意気ごんだのも、それが武士であることの認知・確認の機会であり、オーソライズされる場だからであろう。』(P44)京都大番が、「武士であることの認知・確認の機会」ということは知らなかったが、面白い。
『愛好者向けの歴史書などでは、いまでも「平家の貴族化」などと非難の言葉が投げかけられているが、有力貴族にとって必須の重要儀式を主催する能力も無いのに、そういわれたのでは、当人達がいちばんびっくりするに違いない』(P141)
法皇の強硬姿勢は、対延暦寺では平家の不服従のため奏功せず、おかげでなんども大衆の要求に屈する苦杯をなめた。これは見せかけの譲歩であったから、大衆の圧力が低下すると、後白河は本来の強硬姿勢を復活させたのである。よく彼の政策が場当たり的であったといわれるが、こと寺院大衆への対処については当たらない。』(P174)後白河、寺院大衆への対処は場当たり的じゃなかったというのはちょっと意外、許可をあげたり取り消したりを繰り返していたという印象があるので。
『清盛は、やはり治承四年六月以前から、福原近郊に遷都することを考えていた可能性が高い。清盛は新王朝にふさわしい新都建設、東アジア世界全体に深い関心を寄せる天皇と面目を一新した国際貿易港大輪田泊、それらが藤原道長に擬せられる外祖父清盛と平家の精強な軍団によって支えられる、そのような王権を構想していたに相違ないのである。』(P206)