謎の大王 継体天皇

謎の大王継体天皇 (文春新書)

謎の大王継体天皇 (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)
武烈天皇が跡継ぎを残さずに死んだあと、畿内を遠く離れた近江・越前を拠点とし、「応神天皇五世の孫」と称する人物が即位した。継体天皇である。この天皇にまつわるさまざまな謎―血統・即位の事情、蘇我・物部・葛城などの大氏族との関係、治世中に起きた「筑紫君磐井の乱」との関わり、「百済本記」に記録された奇怪な崩御ありさまなどを徹底的に追究し、さらに中世の皇位継承にその存在があたえた影響までをも考察した、歴史ファン必読の傑作。

継体天皇の時代のことを読むのは初めてだったので、ちょっと疲れた。
5・6世紀の王族、同族意識が希薄。母方親族に強く依存する反面、父方の結合は脆弱。
『夫汙斯王の死後、妻布利比弥命が幼い継体を抱いて実家のある越前三国(現・福井県坂井郡)に帰ったという記述がある。多くの論者がこれを史実と考えているが、これもまた越前の余奴臣の伝承であることを想起すれば、そのままには受け入れられないだろう。』(P72)布利比弥命は母方こそ越前の余奴臣だが、父方は近江の三尾氏で『三尾は父祖の地であって、決して「親族部无き国」などではない』(P73)父方の土地だということは知らなかった、それなら確かにこの話は不自然。
倭の五王、讃、珍と済、興、武の「二つの大王家」という説は、「倭」姓を全員名乗り、倭王武の上表文で「祖禰」(先祖)という言葉が使われていることからも、同じ父系集団に属していたと考えられるので、珍と済の間で血縁関係を否定する説は成立しがたいことが分かる。
大和に入るのに二十年、かかったって、当時の寿命から考えたら入る前に死んでてもおかしくないなあ。七年説もあるが本書では、『書紀』編集者は大和入りがそれほど遅れたというのは事実であっても認めたくないことだったろうが本文で二十年、異伝で七年説を扱っていることから二十年説を取っているという説明には、確かにそうだねと納得できる。
葛城氏には二系統あり、雄略の即位時に滅亡したのはこのうち玉田宿禰の系統。継体を擁立したのは葛城氏やその同族を除いた「非葛城連合」。葛城氏の配下にあった蘇我氏、葛城氏の衰退と蘇我の台頭で、同族内の主導権も葛城から蘇我に、蘇我は親継体。蘇我の急台頭は、同族集団の主導権を握った蘇我が継体の大和進出に大きく貢献したため、という仮説は面白い。
磐井と新羅が内通していたという所伝は信憑性が疑わしい。磐井は新羅ととくに密接な物的関係を持っていたわけではない。風土記の所伝によると『先に攻撃しかけたのが「官軍」であって、磐井のほうから大和政権に戦いを挑んだわけではない』(P152)。『五世紀半ば行こう次第に大和政権の干渉からはなれ、自立化していく構えを見せていた』(P169)という理由。「筑紫国造磐井」と日本書紀にあるが、古事記では「竺紫君石井」筑後風土記では「筑紫君磐井」で、『筑紫君の国造任命は乱後、その子の葛子が大和政権に服属したことに始まると見るのが正しいと見られる。』(P160)
安閑・宣化と欽明の二朝並列、その当時内乱状況を思わせる以降、遺物が検出されないことから懐疑的。継体が安閑に譲位。継体没後、宣化、欽明(欽明が宣化の娘を三人も娶っている、政治的協調関係があった)を支持するラインがクーデタ(辛亥の変)を起こした。継体崩年の翌年即を欽明の即位年とするのは、欽明が一旦王位に立てられるが若年のため一旦退き、年長の宣化が王位に立ったため。という仮説、面白い。
雄略の死から辛亥の変までの動乱で、大和政権は安定化の方向を確かとした、この動乱の結果、『大王を盟主として蘇我氏物部氏、大伴氏といった中央の有力豪族をメンバーとする合議制の成立。その過程で地方豪族は政権中枢から排除され、大王専制復活の可能性も阻止された。』(P205-206)