北条氏と鎌倉幕府

北条氏と鎌倉幕府 (講談社選書メチエ)

北条氏と鎌倉幕府 (講談社選書メチエ)

内容(「BOOK」データベースより)
北条氏はなぜ将軍にならなかったのか。なぜ鎌倉武士たちはあれほどに抗争を繰り返したのか。執権政治、得宗専制を成立せしめた論理と政治構造とは―。承久の乱を制し、執権への権力集中を成し遂げた義時と、蒙古侵略による危機の中、得宗による独裁体制を築いた時宗。この二人を軸にして、これまでになく明快に鎌倉幕府の政治史を見通す画期的論考。

文章がこれくらい軽妙だと読みやすくて面白いね、歴史の本である程度深い内容を扱っているもので、こうした文章の本は珍しい。
三郎宗時、「北条政子」では頼りになる兄として描かれていたから、年齢不詳で兄か弟か分からないというのには、そうなの?と驚いた。
『俗に氏は「の」を付け、苗字には「の」を付けないで読むといわれるが、誤りである。昔の人は氏にも苗字にも「の」を付けて読んでいた。』(P30)これは以前、その俗説を信じていて混乱したことあり、疑問に思っていたが忘れていた(こうした説明を別のところで読んで忘れたか、疑問そのものを忘却したか、どっちか)。
『実名は諱とも言うが、これはまさに「忌む名」であり、通常、主人や父母など目上の人間しか呼んではならない。』(P31)諱は全面的にそれで呼んではいけないものかと思っていたが、目上ならOKだったのか。
『時政と牧方の婚姻は、頼朝挙兵後と考えられる。』(P36)そんな後だったのか。「北条政子」のイメージでもっと前かと思っていた。

承久の乱により、義時が武内宿禰の再誕であるという神話が出き、その神話が北条氏は御後見・補佐役として天下の支配者たる正当性を持つ理由になった。
得宗は、武内宿禰の再誕である北条義時の直系なるが故に、鎌倉将軍の「御後見」として、鎌倉幕府と天下を統治する。
 北条氏得宗鎌倉幕府支配の正統性は、得宗が義時以来の鎌倉幕府の「御後見」たることにあるのであり、このような得宗の政治的・思想的立場からすれば、得宗自身が将軍になるなどという発想が出てこようはずも無く、得宗は将軍になりたくもなければ、なる必要も無かったのである。』(P194)