源義経 源平内乱と英雄の実像

内容(「BOOK」データベースより)
判官びいきの日本人に愛されてきた薄幸の英雄像は、どこまで真実なのか。史実が伝える本当の姿を明らかにし、「悲運の貴公子」義経に対する「悪役」頼朝、梶原景時像を生み出した鎌倉政権の闇にも迫る評伝の名著。

図(写真)が多いのはいいね。
義経にさほどの利用価値があったとは思えない。義経の奥州下りは事実として認めるとしても、秀衡の客分として厚遇されたなどとは思えないのである』(P44)あー、やっぱりそうか。
弁慶『実在ではあろうが、重要人物であったとは思えない』(P53)なんとなく弁慶じたいが、架空の人物だと思っていたけど一応弁慶という人は義経の配下にいたんだ。
腰越状は、『吾妻鏡』『平家物語』などに収められているが、様式・文言からみて当時のものでないとされている。それでいて義経を論ずる人びとは、しばしばこれを引用するのである。文章・内容についていえば、若干の難点はあるとしても、概して義経の側近あたりがつくったものとみてよいのではなかろうか』(P93)「当時のものでない」のに「義経の側近あたりがつくった」ってどういう意味なのか?
平時忠は清盛の妻の弟(兄という説は誤り)である』(P128)
『梶原を、そしてときには頼朝さえも悪玉に仕立て、露骨に判官びいきを示しているのは意外にも鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』であった。』(P136)判官びいきの根源は「吾妻鏡
頼朝、土佐房昌俊を派遣しての義経の殺害未遂は頼朝の法皇に対する挑発で、『頼朝はこうして法皇義経追討宣旨を出さざるをえないように挑発し、法皇がついに義経追討宣旨を出すと、それを口実に種々の政治的難題を法皇に突きつけたのである。これまで法皇は頼朝に対抗させるために義経を利用したといわれてきたが、事実は頼朝は法皇との関係において、義経を利用したのだと、最近私は考えている』(P228)そうしたイメージは今まで持ってなかったが、面白い説。