オランダ風説書

オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」 (中公新書)

オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
日本人の海外渡航を禁じた江戸幕府にとって、オランダ風説書は最新の世界情勢を知るほぼ唯一の情報源だった。幕府はキリスト教禁令徹底のため、後には迫り来る「西洋近代」に立ち向かうために情報を求め、オランダ人は貿易上の競争相手を蹴落すためにそれに応えた。激動の世界の中で、双方の思惑が交錯し、商館長と通詞が苦闘する。長崎出島を舞台に、「鎖国」の200年間、毎年続けられた世界情報の提供の実態に迫る。

この程度の厚さで意外と読みやすかったのに、最近あまり本を読めていないので、読み終えるまでにやたらと時間がかかってしまった。
『「四つの口」がどちらかというと中国と「つながる」ための装置だったのに対し、「鎖国」政策はヨーロッパ勢力から身を「守る」ためのものであり「仮想敵」をもっていたのだ。』(P10)
通常のオランダ風説書は、商館長が口頭で述べたのを通詞が日本文で筆記。「風雲児たち」でも通詞たちは翻訳できないからどうしていたんだろうと思っていたが、そういうことだったのか。さらに商館長が口頭で伝えたものでも、通詞や長崎奉行の判断で幕府に伝えられないこともあった。
通詞、『自分たちの生活を守るためにも、長崎でのオランダ貿易を存続させようと情報を操作することがあったのである。江戸の幕府にすべてをそのまま伝えたのでは、幕府とオランダ人の間に軋轢が生じて大問題になるかもしれない。彼らは、オランダ人ではなく、自分たちを守るために情報を操作したのである。』(P197)
シャムとの交易、『一六七九から一七一五までの間に七八隻(一年当たり二、三隻)、一七一六から一七二八の間に一一隻(一年当たり約一隻)』(P101)江戸中期ぐらいまで、中国やオランダ以外にもシャム船が日本に頻繁に交易に来ていたのをはじめて知る。
別段風説書、国ごとの情報。今までこうしたのが、オランダ風説書の一般的な形だと思っていたよ。別段風説書は1840年からだから、そうした形で情報を貰っていた期間は、後期(晩期)の一時期だけと、案外短いのね。