鎌倉幕府の滅亡

鎌倉幕府の滅亡 (歴史文化ライブラリー)

鎌倉幕府の滅亡 (歴史文化ライブラリー)

内容(「BOOK」データベースより)
源頼朝の鎌倉入りから一五三年、不敗の歴史を誇った鎌倉幕府はなぜ呆気なく敗れたのか?政変や戦乱の経過のみならず、幕府政治の根幹を成す御家人制の質的変化に注目。定説にメスを入れ、幕府滅亡の真実に迫る。

「北条氏と鎌倉幕府」が読みやすく面白かったので、他の本も読みたくなりこれを読了。って、「北条氏と鎌倉幕府」を読んでからもう三ヶ月もたっているのかよ。
「無敵の鎌倉幕府」そうした印象今までなかったけど、たしかに承久の乱でも勝ったし、蒙古襲来でも相手の目的達成させなかったから、そういわれればそうかな?(無敵よりも無敗って感じがするけど)
『北条氏の内部に成立した各分家の所領経営をはじめとする家政運営は独立採算制でなされており、得宗の支配は及んでいなかったことが明らかになったのである。』(P12)よく考えるとそのほうが当たり前なんだろうけど、意外に思ってしまう。
『鎌倉中期以降、御家人でありながら得宗の従者となった御内人が幕政上に大きな地位を占めるようになる』(P70)御内人は全員御家人でもあるということ?単なる得宗の家臣では御内人とは呼ばれないのか?
50〜60家(北条氏は内20家)の都市鎌倉を拠点とする、幕府中枢の要職をほぼ独占する特権的支配層。『「中央要職を世襲によって排他的に独占することを政治的・経済的基盤として、政権を支配し、都市に集住しながら全国に散在する所領を経営する」という特権的支配層の性格は、王朝貴族と同質なものである。言わば、特権的支配層は前述したように「鎌倉幕府の貴族」「武家貴族」と呼ぶべき存在であり、特権的支配層によって支配された鎌倉幕府は「王朝の亜流」「二流の王朝」とでも呼ぶべきものになっていたのである。』(P101-102)かつての王朝のようになっていた(しかも二流)と考えると、滅ぶのは当然に感じられる。
時宗安達泰盛が弘安徳政で目指したのは、南北朝内乱無しでの鎌倉幕府の室町的体制への移行であったと考えられるのである。』(P116)地方分権を目指した、弘安徳政。
『嘉元の乱以降の鎌倉幕府得宗の政治力を必要とする体制ではなかった。得宗は将軍と同様にただ存在すればよい装飾的存在であり、幕政は寄り合いの合議によって運営されていたのである。』(P145)得宗が高時の代では政治力が必要なく、ただの装飾的存在となっていたというのには驚いた。