河内源氏

河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
十二世紀末、源頼朝は初の本格的武士政権である鎌倉幕府を樹立する。彼を出した河内源氏の名は武士の本流として後世まで崇敬を集めるが、祖・頼信から頼朝に至る一族の歴史は、京の政変、辺境の叛乱、兄弟間の嫡流争いなどで浮沈を繰り返す苛酷なものだった。頼義、義家、義親、為義、義朝と代を重ねた源氏嫡流は、いかにして栄光を手にし、あるいは敗れて雌伏の時を過ごしたのか。七代二百年の、彼らの実像に迫る。

頼朝の本はいっぱいあるけど、それ以前の源氏の本で安価な本はあまりないので、そこらへん詳細に知りたいとも思っていたので、こういうのが新書として出てくれて嬉しい。
実は清和源氏ではなく、陽成源氏というのをすっかりと信じていたが、陽成源氏の根拠となった、頼信が書いた告文は偽文書説もあるというのははじめて知った。結局どちらかはわかんないのね。
平忠常の乱、戦わずして降伏したのは『国内の荒廃と体調の悪化で追い詰められていた』(P35)から。ただし『もっとも、頼信の追討使任命から降伏まで数ヶ月が経過しており、降伏の条件をめぐる交渉は結構長引いたようである。』(P36)
前九年合戦、かつては頼義首謀者説だったが、その説は『いざとなれば多くの東国武士を動員できるという、武家棟梁としての力量があったという理解が存在している。』(P54)が実際には当時自力で多くを動員する実力はなく(それに京・河内に関係した郎従が中心)、そのまま無事に任期を終えれば高い評価を与えられるはずだったので、それは考えにくい。むしろ『頼義在任中はおとなしくしていた安倍一族が、頼義の離任後に再び猛威をふるうことを恐れた在庁官人や、土着していた任用国司の側に軍事衝突を惹起した動員があったと考えられる』(P55)
清衡・家衡の母(安倍頼時の娘)、『かつての解釈では、彼女は安陪氏滅亡後に「戦利品」のごとく拉致されたようにみられていた。しかし、そうであれば彼女が生んだ家衡はもとより、先夫の子に過ぎない清衡が大きな発言力を有するはずがない。おそらく安倍氏旧領に進出した清原氏が、安倍氏の権力を継承する象徴として彼女を武貞の妻に迎えたのであろう。したがって、その子供たちも一族で優遇され、発言力をもったと考えるべきである。』(P79)たしかに「戦利品」説では清衡がそんなに力を持っているのが不自然に感じていたので納得。
義家、後三年の役時の恩賞なしは、朝廷は停戦命令まで出しているのだから当然。
「義親」の偽者たちの話、ちょっと面白い。
義朝が武士団対立の調停者として東国武士に受け入れられた理由は、『名門河内源氏の武力もあったが、どうじに院・摂関家の権威も存した』(P139)
義朝の保元の乱後の恩賞はむしろ破格。元々、当時の清盛と義朝は決して同格とはいえない。
『頼朝は挙兵に躊躇しなかった。この決断には、『平家物語』諸本が説く後白河の密命が関係したと考えられる。』(P206)「後白河の密命」そんなのあったのか、たぶん以前にもどっかで見たことあるんだろうけど、すっかり忘れてた。
『頼朝と後白河院、義仲と八条院といった中央との政治的連携に他ならない。』(P208)義仲と八条院、これはどういうつながり?
元木さんの著作読むのはこれが初めてだが、すごく面白かったので、他のもなんか読もう。