宗教で読む戦国時代

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

内容(「BOOK」データベースより)
宣教師も驚いた戦国日本人の高度な精神性。その「ゆるやかな宗教性」のバックボーンとしての「天道」思想をキーワードに、一向一揆キリシタン論争から島原の乱まで、日本人の心性に新たな光を投げかける。

つづき。
一向一揆」という言葉が出来たのが江戸時代。宗教的な問題(教義の違いなど)のための戦いでなく、教団のための戦いだった。
『幕府の保護の下にあなどりがたい勢力をもつ本願寺教団と、これを警戒する比叡山との私闘がその内実であって、宗教や信仰をめぐる争いではない』(P96)比叡山との対立に宗旨は関係なし。
文明六年(1474)の加賀の一揆は仏法に関する「聖戦」と見なされていたが、その後に起きた有名な加賀の一向一揆(1488・教科書に載っているほう)は『守護家の内紛に本願寺門徒が介入したとみるほうが事実に即している。』(P101)
『政治抗争に巻き込まれた本願寺教団が、抗争の中での生き残りをかけて諸国の門徒を戦場へ動員した、というほうが実態に近いように思われる』(P105)
織田信長本願寺と敵対した時は本願寺が敵対行動をとったからで、本願寺にはむしろ寛容で味方につけようとしていた。『信長が仏教精力に厳しいという証言のほとんどがイエズス会宣教師の報告書にあるものであることも注意が必要』(P118)
『「霊魂の不滅、来世の賞罰は無い」とはフロイスの捉えた禅宗の教義であることは、第一章でみたとおりである。要するにフロイスは、信長は多くの日本人と禅宗の世界観を共有していた、と述べているに過ぎないのである。第二章で見たように信長も当時の多くの武士と同じく「天道」思想を共有していた。』(P119)信長は特別に奇異な宗教観の持ち主ではなかった。
家康が実権を握った時、東西に本願寺が分かれ、東本願寺教如(一旦信長と本願寺が和睦したあと、更に交戦を続行した人)を批判するために、教如が交戦続行した時に協約違反の報復で本願寺を滅ぼすため鷺森に軍勢を集めたが本能寺の変で信長が死んだから危うく助かったとする「鷺森合戦」を創作し、それが史実として軍記にも取り入れられ「一向一揆」という名称が出てきて、そこから現在の一向一揆像(と信長像)に。
「第三章 一向一揆の実像」なんかやたら読みづらい。宗旨のための戦いでなかったといっているが、そういう例とかも出てきているからかな。というか宗旨のための戦い(建前じゃなく)って世界史よく知らないが、あるようなものなのか?宗旨の戦いと教団のための戦いってそんなに違うものなのか。
本願寺派禁制『宗旨である真宗が危険だから禁制するのではなく、本願寺教団との駆け引きの中で行われる対抗措置として禁制が行われていたのである。』(P149)こうゆうのも宗教の禁制って大概そのようなもんじゃないかと思ったり。
『中世で「一向宗」と呼ばれたのは真宗だけではなく、念仏集団を報じる山伏、「祝」と呼ばれる下級神官、陰陽師、琵琶法師などもこの名称で呼ばれた』(P150)ふうん。
キリスト教が秀吉に「邪法」と呼ばれたのは、仏教諸派への攻撃・迫害のため、これほど自業自得だといえることはないなあ。
当時『キリスト教は、かつてないほど排他的になった時代に日本に伝えられて来た』(P218)ということだが、キリスト教に対するイメージはこの時代のイメージ結構強いよなあ。だからあまり好きになれなかったけど、その時期が特別排他的だったのね。
島原の乱千年王国信仰の影響も。
『鶴田倉造氏は「天候不順・凶作・領主の苛政や重税」を「棄教したことに対する天罰」と考え、これを「バネとしてキリシンタンへの復宗運動が起こった」としておられるが、的確な指摘といえよう』(P188-189)なるほど。
当時の西洋は日本に比して格段に進んだ医療が行われていたわけではない。となると、当時メリットは商業だけか、そのうち朱印船もでるしそうなるとデメリットの方がめちゃくちゃ大きいよな。すべての宗旨を共存させる論理は、キリスト教などの他宗派を攻撃する宗旨とは共存する手段がない。これをみてちょっと思ったが、それを無理やり一つとしてみると、攻撃しているのが悪魔という位置づけになるんじゃ、と皮肉な考えが浮かんだ。