平清盛の闘い 幻の中世国家

平清盛の闘い 幻の中世国家 (角川ソフィア文庫)

平清盛の闘い 幻の中世国家 (角川ソフィア文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
巨大な権勢をもって驕り、「仏敵」「悪逆非道」の汚名を着せられた平清盛。彼が真に追いもとめたものとは、何だったのか?後白河院政の否定、政敵たちへの仮借なき攻撃と断罪、強引な福原遷都計画、そして南都焼き討ち…。貴族と武士が一体化した中世国家という、新たな政治秩序の確立に邁進した足跡をつぶさに検証。波瀾に富んだ生涯と、先進的政治家としての鮮烈な実像を描きだす。従来の悪人像を覆した画期的な清盛論。

内容が細かくなりすぎたり、資料の引用が多くて読みづらいということもないので、今まで読んだことがある平家についての本で一番平家のことがコンパクトにまとまっていている。この時代のエピソードは、結構読んだことあるのが多いんだけど、毎回のように忘れていて、読むたびに思い出したり感心したりということが多いなあ(苦笑)この時代の本を新たに買うよりも、読みやすいと思ったものを再読したりしたほうがいいのかもなあ。
『他の院近臣家と対比した場合、清盛の昇進速度は必ずしも速いとはいえないことがわかる。』(P27)清盛の昇進、院近臣としての昇進速度なのか!
ただし著者は内大臣太政大臣太政大臣は当時は名誉職で、清盛の権力・権勢への影響少ない)への昇進できたことやその異常な早さについて、皇胤という説明を取っている。個人的には「やる夫 鎌倉」の人のスレで当時の一次資料が重源が書いたものぐらいでしかないと知って皇胤はなさそうだと思っていたんだけど。
『調停は延暦寺には鴨川、興福寺には宇治川付近に武士を派遣して入京阻止を図り、覇権以前に入京されてしまった場合には、ほぼ要求を応じることになった。』(P30)なんか、ゲームみたいだな(笑)
保元の乱までの『摂関家は、公家でありながら、軍事貴族や悪僧を組織した一つの政治勢力となっていた。』『当時の摂関家の存在形態は、まさに公家・武家が一体化した政治勢力が誕生する可能性を示すものだったといえよう』(P43-44)このくらいの時代の本ってあんまないし、読んでいないから、摂関家が(源平のときの平氏と同じく)複合権門だったということはいつも失念してしまう。
頼朝助命『清盛が池禅尼の要請を拒めなかった原因は、先述した禅尼の家長としての発言力の強さにあった。さらに、母が院近臣家出身だったことから、頼朝は幼い時より後白河院やその同母姉上西門院に使えており』『禅尼からの助命要請の背景には、院近臣家出身の禅尼を通した、後白河や女院らからの働きかけが存したものと考えられている。』(P63)
『保元・平治の乱という戦闘を経て武力を組織化し、王権の分有者となった清盛が高倉天皇と結び、権威が弱体だった後白河を幽閉し、新王権を樹立した事件が、治承三年政変であった。
 したがって、清盛は貴族政権の改変を図ったに過ぎず、頼朝のように新たな政治組織を形成したわけではない。しかし、いわば頼朝が貴族政権との衝突を回避したのに対し、清盛が王権に対して正面から挑戦したことに注意しておく必要がある。』(P146)
福原遷都、桓武の例にならい新王朝の宮都の新規造営を目指す。もちろん、京都を出ることを正当化するための理由付けに過ぎないと思うが。