島原の乱

島原の乱 (中公新書)

島原の乱 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
大坂の陣から二十年余りを経た一六三七年、天草四郎を擁するキリシタンが九州の一角で突如蜂起し、徳川幕府に強い衝撃を与えた。飢饉と重税、信仰への迫害が乱の原因とされるが、キリシタンが「異教徒」に武力で改宗を強制した例もあり、実情は単純ではない。本書は、戦乱に直面した民衆の多様で生々しい行動を描き、敬虔な信者による殉教戦争というイメージを一新。民衆にとって宗教や信仰とは何であったかを明らかにする。

戦国時代のような大名と町や村との共闘、島原の乱のときにも見られる。
『力ある女性たちも一揆のメンバーとして戦っている一方、その一揆の一部隊が、攻め込んだ町の、逃げ遅れた女性を拉致していたこともまた、キリシタン一揆の無視できない一面だったと思われる。』(P21)今まで持っていたイメージとは、結構違うねえ。まあ、キリシタンの要素が強いのと同様に、一揆の要素もまた強いというだけか。
この時代は『武装蜂起と訴訟とは異質のものではなく、同じ目的を達成するための、異なる手段に過ぎないと考えられていたのである。』(P36-37)
『天草のキリシタン一揆は蜂起するに際し、十五歳以下の子供は総て親が手にかけてから蜂起したという』(P54)死生観、現代から見ると異様で不気味だ。
戦国のキリシタン大名や宣教師の寺社破壊。貴重な美術品や史料が失われたと思うとやりきれなくなるから、個人的にはそれが、この時代のキリシタンに対して決して好感を持つことができない最大の理由。あとは今までの歴史的な積み重ねがある穏やかな信仰でなく、改宗した第一世代だからよく言えば熱狂的な、悪く言えば狂的な感じがするのでどうにもひいてしまう。
司祭メスキータ、インド副王へ関係修復のため進物に日本の「少年少女」たちを送ることを考え付き、って奴隷を進物にしようと考え付く聖職者……。そしてその要請を受けて実行する有馬晴信……。
キリシタン政策、全国的に厳しくなるのは島原以後。『この当時の島原・天草でも対キリシタン政策は、幕府の威令によるというよりも、松倉・寺沢という大名個々の思惑、渦中の事情によりなされていたと考えられる』(P103)
『「天候不順・凶作・飢饉・領主の苛政や重税」を「棄教したことにたいする天罰と考え、これを「バネとしてキリシタンへの復宗運動が起こった」という鶴田倉造氏の指摘」』(P111)納得いく考えだ。
原城一国一城令で破城したといっても、外から見える施設のみを破壊しただけで、かなりの施設はそのまま残されていた。
キリシタンを「異国」の、日本にとって少なからず敵対的なものと見る観点は支配者のみのものではないように思われる』(P210)