孝明天皇と「一会桑」 幕末・維新の新視点

孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点 (文春新書)

孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点 (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)
薩長二大雄藩が土佐の坂本龍馬の仲介で同盟を結び武力倒幕に邁進した結果、維新回天の偉業はなし遂げられた。これが明治以来、日本人の大多数が信じてきた「史実」である。しかし、これは「薩長史観」「勝てば官軍史観」がでっち上げたフィクションにすぎない。幕末・維新の過程で大きな役割を果たしながら、公定の歴史叙述のなかで何故か無視されてきた孝明天皇や、政治勢力としての一橋慶喜会津、桑名両藩に光を当て、歴史の真実とは何かを問う。

単なる幕府の出先機関ではなく、独自(朝廷より)の動きをしていて、一橋・会津・桑名が幕府とは別の一つの勢力だった(自分たちが意識しているかどうかはべつとして、たぶん内部の意見不一致という感覚かな)という視点には驚いた。まあ、考えてみれば動乱の時代に幕府の幕閣・幕臣すべてが一丸となって同じ手段や行動を取っている、と考えるほうがおかしいのかな?
将軍の上洛、その後の引止めによって、「京都の幕閣」と「江戸の幕閣」に分裂していたとは知らなかった。
孝明天皇が自己の代弁者とみた政治勢力が「一会桑」(一橋・会津・桑名)。「一会桑」は江戸の幕府の代弁人ではない。この見方は今まで考えたことのなかった見方なので、すごく新鮮で面白い。
一橋慶喜なども京都に定住するようになると、当初の開国論はどこへやら、天皇(朝廷)の攘夷実行の要請に同調するようになる。』(P88)一橋、そんなことになっていたのか(笑)
慶喜、江戸にいたときは父(や自分)に対する老中・諸役人・大奥の強い反発を常に意識していたため過度とも思える遠慮があったが、京都に来て以降そうした遠慮が弱まり、主体的な動きが見られ始めるようになり『彼の思想の根源にあった尊王の考えが、遺憾なく発揮されるようになった』(P91)
慶喜禁門の変前の時点で、なにも会津藩寄りの姿勢を見せる必要はなかったのである。』(P96)なんか今まで一体に感じていたけど、違うのね。鳥羽・伏見のあと独断で江戸に帰ったり、戊辰戦争で結局会津がやられたりしたのを考えると、会津慶喜の縁って思っていたより深いものではないのかね。このとき、会津の窮地を救ったのは孝明天皇だったし。
禁門の変『以後、彼らは京都にあって幕府精力を代表しながらも、幕府からかなりの程度自立した政治勢力としての活動を行うことになる。』(P102)
禁門の変後、会津は国元・江戸と京都での意見の違いが鮮明に。
薩長同盟、武力倒幕の意図なし、戦うかもしれないと想定していたのは対「一会桑」(江戸とは意見が異なる)。薩長どちらも幕府に対して公然と戦いを決定したことは一度もない。
慶喜の根回し下手さはこの本を読んだ後「天下の副将軍」を読んで改めて感じたが、父・斉昭と似ているなあ。尊王思想といい、今までそんなに二人のことを似ていると思っていなかったが、そういう点で似ているとやっぱり親子だなと思う。
慶応二年(1866)『朝廷の上層部と一会桑(および一会桑寄りの一部老中)との強い結びつきに基づく支配のあり方が、一気に崩壊した』(P146-7)
慶喜が自らの政治意見を持つ将軍だったから、政策を批判するとき老中・諸役人を槍玉としてあげることができず、直接将軍に批判の目や言葉を向けざるをえず、それが幕府との真正面からの対決を招いた。というのには、なるほどと納得した。
慶喜自身が、仮に大政奉還後もひき続き新しく誕生する諸侯会議(諸大名の合議によって運営される)のリーダーとして、徳川氏中心の政治体制を保持もしくは創出していくつもりであった、つまり実権を依然として掌握していくつもりであったとしても、それは彼個人一代の間でのみ可能であったということである。しかも、それは彼の個人的な能力が衰えず、また政権担当の意欲もあり、彼の存在を脅かすものが存在しない間のみ可能な、そういう意味では一時的な実験の掌握であった。』(P173)「つまり実権を依然として掌握していくつもりであったとしても、それは彼個人一代の間でのみ可能であった」という指摘には目から鱗
王政復古のクーデター、『王政復古に難色をしめす会津・桑名両藩を挑発して、両藩をたたき潰すことで、佐幕派勢力に壊滅的な打撃を与えて、その後の王政復古に向けての作業を一気に信仰させようとしたため』(P190)なるほど。だけど、それが表向きの藩士達への説得のための方便で本当は幕府との対決の想定あったのか、本気でそう考えていたのかどっちだろ?まあ、幕府との戦いがあったとしても、それに負けても取り潰しとか大きな処罰できないとは考えていたのだろうけど。
王政復古自体は慶喜も反対ではないから、そんなに反発ないとの想定か。