あまりにも騒がしい孤独

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

内容(「BOOK」データベースより)
ナチズムとスターリニズムの両方を経験し、過酷な生を生きざるをえないチェコ庶民。その一人、故紙処理係のハニチャは、毎日運びこまれてくる故紙を潰しながら、時折見つかる美しい本を救い出し、そこに書かれた美しい文章を読むことを生きがいとしていたが…カフカ的不条理に満ちた日々を送りながらも、その生活の中に一瞬の奇跡を見出そうとする主人公の姿を、メランコリックに、かつ滑稽に描き出す、フラバルの傑作。

3、4年ぶりに再読。以前読んだときは文章のきれいさばかりに、目を取られて、ストーリーをろくに読めていなかった。短く凝縮されている分だけ、ちょっと文章の意味が読み取りにくい部分があるので、わからなかったら同じ部分を何度も読んでいたので、読み終えるまでに、本文は130ページくらいしかないのに時間がかかってしまった。訳者解説に『「ネズミ戦争」が「下位テキスト」になっている』(P139)とあるけど、僕は文学の読み方がわかんないから、そうしたものにどういう意味があるのか、暗喩されている意味とかはわかんないから、ストーリーを読むだけだったけど、それでもこの文章の抜群の良さだけで、もう大好きな作品。
それに、元美学教授に対するハニチャの一人二役や現在のマンチンカに会ったエピソード、新しい故紙処理場に行ったときのエピソードなど、個々のエピソードがものすごく印象に残る。

『三十五年間、僕は故紙に埋もれて働いている――これは、そんな僕のラブ・ストーリーだ。三十五年間、僕は故紙や本を潰していて、三十五年間、文字にまみれ、そのために僕は、この年月の間に三トン分は潰したに違いない、ちょっと身を傾けただけでも、僕の中から美しい思想が滾々と流れ出す。僕は、心ならずも教養が身についてしまい、だから、どの思想が僕のもので僕の中から出たものなのか、どの思想が本で読んで覚えたものなのか、もう分からなくなってしまっている。こうして僕は、この三十五年の間に、自分や自分の周りの世界と一つになってしまっているんだ。』(P7-8)冒頭のこの文章は、本当にたまらないほど美しい。

『僕は罪を犯したんです。人間性に対する犯罪を自首します……。』(P19)このシーン、もっと後の方だと覚え違いしていたが、かなり序盤だな。
『僕は彼らが気づくようにその本を差し出してみたけれど、彼らは何事もなかったかのようにそれを見たので、僕は自分の中に力を見出してカバーを見た』(P111)この、自分の居場所がなくなってしまった所在無さによる、滑稽さともの悲しさの両方を感じる場面は切なく胸を打たれる。

チェコのフラバル研究の第一人者であるミラン・ヤンコヴィチが『フラバルの詩学数章』の中で指摘しているように、「フラバルの語りは、プロットにおける物語の展開や人物の心理的な色づけに基づく、伝統的な散文とは明確に異なる。出来事はエピソードと非心理化された人物に分割される。物語の代わりに一連の面白い絵のような場面と状況が生じる」』(P144-5)「物語の代わりに一連の面白い絵のような場面と状況が生じる」というのは言いえて妙。