平城京の時代 シリーズ日本古代史 4

平城京の時代〈シリーズ 日本古代史 4〉 (岩波新書)

平城京の時代〈シリーズ 日本古代史 4〉 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
八世紀の日本は、国家のすみずみにまで統治を及ぼす大宝律令の施行で幕を開けた。つづく平城遷都、記紀の編纂など、唐を手本にした体制が整えられ、奈良の都に天平文化が花開く。ところがそこに襲う疫病の流行、皇位継承をめぐる争い…。揺れ動く時代を人々はどう生きたのか。天皇・貴族や人民の動向を、豊富な資料を駆使して描く。

積んでいる期間も読んでいる期間も両方長かったが、ようやく読了。
『現在、新羅では唐や日本と同様の体系的な律令法典は、編纂されなかったのではないかという説が有力である。』(P18)それはちょっと意外。
隼人は『他の地域と極端に異なる文化を持っていたとは考えがたい』『隼人を特別視するようになるのは、律令制の施行に伴う現象と言ってもよいくらいなのである。』(P36)
なぜ、隼人が異民族として演出されていたかというと『日本の辺遠部にも「夷人雑類」』がいて、彼らが天皇の徳をしたって定期的に朝貢してくるという姿を維持し、日本が唐と同じような華夷秩序に編成されていることを示すことに、一つの重要な目的が置かれていたためであるという考えも十分に成立するだろう』(P46)「唐と同じような華夷秩序に編成されていることを示す」ため。平安時代に入っても、着ない周辺に移住させられた隼人・蝦夷の子孫が儀式に参加させられ王権への服属の演出をさせられていた。
東国兵士。陸奥の鎮兵として動員されているときは、防人はなく。防人のときは、陸奥への動員がない。陸奥へやったり、防人にやったりと忙しいねえ。
班田収受、庚寅年籍に基づく班田以降、8世紀前半には基本的に守られた。今まで、正直守られていた時期あったのかすら疑問に思っていたが、そんな長い間というわけでもないが一応守られていた期間はあったんだね。
藤原不比等、「古事記」「日本書紀」「風土記」『これらの編纂物の内容にまで彼の意向が組み込まれたのではないかという推測には、にわかには与しえない。よく取りざたされるのが天孫降臨神話で神勅を下すこともあるタカギノカミないしタカミムスビノカミに不比等が投影されているのではないかという説、あるいはそもそも天孫降臨という設定自体が、女帝が孫に皇位を継がせることに腐心した編纂当時の天皇家の事情(持統と文武、元明聖武)を反映させたのではないかという推測であるが、当時の偶然的・時局的な状況を神話に固定させることで正当性を確保しようとすることは、かえって皇位継承の選択肢や権力の正当性のよりどころを狭めてしまうことになりかねない。不比等や現実の太政天皇の立場を神話に固定することがどれほど権力の正当性の説得力を高めただろうか。もう少し彼らはリアリストだったように思う。』(P121-122)今まで読みたいと思って読めていなかった「天孫降臨の夢―藤原不比等のプロジェクト」にはそのことが書かれているのかな?でも、「もう少し彼らはリアリストだったように思う。」という説明にはすごく納得しちゃったから、もう読む気があまりなくなっちゃったけど(笑)
『養老令での改訂が中途半端に終わったこと、大宝令と大差のないことは、大宝令で定められたことを大きく変えさせなければ、それで彼の意図が十分に達成されたとみることもできるのである』(P124)そういう見方したことなかったのが、納得できる。『大宝令に固定された藤原不比等既得権益の最大のものは陰位制と勅封制である。』(P124)
渤海高句麗の継承国を名乗ったことで、朝貢国と見なされたのは誤算だった。
聖武天皇、即位後の母・宮子の称をめぐる一連の動きは芝居。
平城京の時代、国家の施策で共同体なしでも暮らせる状況を生み出し、共同体の共同性を破壊する方向でも機能した。『知恵と勇気があれば、眼前の共同体から離れて有力者のものに走り、そこで国家の直接の干渉から逃れることもできたし、自分の能力で大規模な経営を始めることもできた。国家は、確かに公民の最低限の生活を保障する仕組みを作り上げた。しかし、それでは満足できない人々が活路を見出す方途も、同時に用意してしまったのであった。』(P227)