仏教誕生

仏教誕生 (講談社学術文庫)

仏教誕生 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
古代インドに生まれ、今もアジアの人々の暮らしに根づく仏教。インドの宗教的・思想的土壌にあって他派の思想との対立と融合を経るなかで、どんな革新性をもって仏教は生まれたのか。その生成の場面に光を当て、比較思想研究の手法によって「経験論とニヒリズムに裏打ちされたプラグマティスト」釈尊の思想の本質に迫る。インド思想史研究の意欲作。

宮元さんの本を読むのははじめてだが、中村さんの「ブッダの人と思想」「原始仏教 その思想と生活」を以前読んだことがあるのもあって、読みやすかった。ただ、仏教の本、なんか原始仏教のものは少し読んでいるが、他の大乗仏教などの話はまだ読んだことないので、今度は大乗についての何かしらの本でも読もうかな。
はしがきで知ったけど、著者は中村元さんの弟子(という言葉でいいのかしら?)なのね。
古代ギリシア、インドの輪廻思想。キリスト教は、人類はまっしぐらに終末の日へ突き進むという、直線的時間論。『近現代的な意味での「歴史」というものは、直線的時間論を前提にしてのみ成り立つといわれたりする。』(P29)終末、というとどうも神話的とかオカルトといった印象が先に来てしまうが、キリスト教が終末を想定していたからこそ、現代人と共通の直線的時間論を持った(キリスト教文明が近代文明の元となったとしても、直線的時間論が現実と合わなかったら、理屈つけて他のなにがしかの時間論に合理化されているだろうから)と言うのは面白い。
六師外道、弟子への教え方・導き方が異なるだけで、釈尊の説と、彼らの主たる教義は特に矛盾しないというのは、はじめて知ったが面白いな。
『初期ジャイナ教と初期仏教は、教団のありかたから教義から、そしてまた用いる述語からして、驚くほどよく似ている。』(P77)
タターガタ、如来。最初期の仏教の意味では、「そのように、まさにしかるべくして彼岸に渡っていってしまった人」涅槃へ行った人という意味、つまり如去。如来と言う訳は、「タタター」(「あるがままそのまま」「実相」「真如」)から衆生の救済のために「戻ってきた人」(「アーガタ」)、という大乗的解釈によるとのこと。
大乗、禅定の最高境地である三昧をクライマックスとするのは釈尊がはじめのころについたふたりの仙の教えと似ている。釈尊は、禅定のつぎなるものとして智慧の獲得を重視した。
『「ブッダ」というのは、「ブドゥ」という「自動詞」の過去分詞形なのであり、目的語を持たない。であるから、「ブッダ」というのは、なにかを悟った人、なにかに目覚めた人ではなく、せいぜいいえて、なにかから目覚めた人なのである。
 常識的に、これは「眠りから目覚めた人」あるいは「夢から目覚めた人」と解するべきである。ここでいう「眠り」あるいは「夢」は、無知ゆえに生存への執著にからめとられ、ただ右往左往するだけを余儀なくされていた状態を意味する。』(P108-9)ブッダ、夢・眠りから目覚めた人。
釈尊、『在家から寄進されれば新品の衣を受け取って着用する、不殺生の原則から禁忌とされる肉料理も、条件つきとはいえ、乞食で在家からそれを受け取れば、それを食す、などなど』(P125-6)条件つきとはいえ肉料理も、というのは意外。
『仏教は、第一義的には、現世をようよく生きるための智慧を与える教えであり厭世とは程遠い』(P147)という主張は、『明治以降、キリスト教に対抗しつつ、それを学んで形成された「近代日本仏教」からでたものであり、釈尊の教えに直結しているとはいいがたい』(P147-8)釈尊が到達したところは生存欲を断つこと、「生のニヒリズム」。人間がどう生きるべきかという問題は生存欲から発するものだから、『仮にこの問題の解決になりそうなものがあったとしても(あることはあるだろう)、それは釈尊の方便の一部のなかにしかない。』(P165)
釈尊の基本的スタンス、『生のニヒリズムに裏打ちされた経験論とプラグマティズム』(P169)
『三昧という一種非日常的な神秘体験は、心理的、生理的な現象にすぎず、智慧とは原理的に無関係であるにもかかわらず、救済主義的民衆宗教をもって自任する大乗仏教は、安直な(易行道的な)神秘主義によって、智慧を実質的に空洞化してしまった。つまり、手段にしかすぎないもの、仏教の窮極の目標にすりかえてしまったのである。大乗仏教の「功罪」の「罪」の中心はここにある。』(P193)手段目的の倒錯。ここまで否定されると、禅宗の人がちょっと可哀想になるなあ。