竜樹

龍樹 (講談社学術文庫)

龍樹 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
一切は空である。あらゆるものは真実には存在せず、見せかけだけの現象にすぎない。仏教思想の核心をなす「空」の思想は、千八百年前の知の巨人龍樹により理論化された。インド・中国思想に決定的影響を与え、奈良・平安仏教でも「八宗の祖師」と讃えられたその深く透徹した思考が、仏教学・インド哲学の世界的権威の手で、『中論』全文とともに今甦る。

やる夫スレの「新城 法然」の番外編に竜樹の話があったのでそこから興味を持ち読んだ。しかし、ちょっと難しいから、「新城 法然」で理解した相互依存、相互限定という理解以上のものはちょっとろくに理解できなかった(苦笑)、「相互依存、相互限定」の空や縁起の話は、わかりやすかったけど(それでもやっぱり元が難解だから十分にはわからず所々わかっているという感じだけど)。
そのうち再読しよう。

竜樹の伝説的エピソードの、透明人間になって〜というエピソードはどこかで見たけどどこだったかな、と「新城 法然」の番外で見たときから思っていたが、芥川龍之介の「青年と死」か。
『空とは、あらゆる事物の依存関係(relationality)にほかならない。』(P18)一切諸法(あらゆる事物)。空、縁起、中道、仮名、無自性、非有非無は同義で依存関係、相互依存、相互限定。『従来中国、日本の仏教教学においては縁起と諸法実相とは互いに対立する概念であるかのごとくに取り扱われてきたけれども、その両者は本来同一趣意のもの』(P284)なので、諸法実相も縁起や空と同義か。
空は、有(実有)でも無でもない。
『要するに、有と無とはそれぞれ独立には存在しえないで、互いに他を予想して成立している概念であるというのである。すなわち、有と無との対立という最も根本的な対立の根底に「相互依存」「相互限定」を見出したのであった。故に非有非無とはそう語彙前節(相互限定説)に立って始めていいうることであり、無自性および空という二つの概念が縁起から導き出されるのと同様に、中道の概念もまた中観派特有の「相互限定」という意味における縁起に基礎付けられていることを知る。』(P269-70)
非有非無、非常非断『〈有り〉というのは常住に執著する偏見であり、〈無し〉というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は〈有りということ〉と〈無しということ〉に執著してはならない』(P270)
「空見」とは、空を有と見なしたり、無と見なしたりする誤りで、『空見とは空という原理を想定する考えであるといえるであろう』(P278)

『一切諸法は他の法に条件付けられて成立しているものであるから、固定的・実態的な本性を有しないものであり、「無自性」であるから、実体をもたないものは空であるといわねばならぬからである。』(P60)固定的・実態的な本性を有しないもの(「無自性」)
「ターラナータの伝えるナーガールジュナの伝記」(題名長い)の「二 ブッダガヤーの破壊と般若陀羅尼の出発」の冒頭は、菩提樹荒されすぎで笑った。
P88-90にありかた、などの語の説明があるが、さっぱりついていけない、わかりやすく解こうとしているのはわかるのだが、それでもまだ僕にはわからない。この部分を読んでなんとなくでもわかるようになったら、「?ナーガールジュナの思想」を読みなおそう。
『有部は「もの」の実在を主張したといわれるが、その「もの」とは、それ自身の本質(自相)の意味である。』(P91)
『有部は概念のみならず判断内容すなわち命題がそれ自身実在すると主張した。』(P94)有部、法有の立場、竜樹が批判している人ら。
五位七十五法、P96-97に表。ややこしい、これは覚えるだけでも大変そうだ。
『第一、実有とは、時間的空間的規定を受けている自然的存在を可能ならしめる「かた」としての法に関してのみいわれる。この点で自然的存在たる「仮有」と区別されるし、また自然的存在の中に対象を見出しえない。「名有」とも区別されるし、また実有なる五つのあつまり(五蘊)の仮の和合に名づけられたところのプドガラなる「和合有」とも区別される。
 第二、法は自然的存在の「ありかた」であるが故に、他に依存せず、独立している。したがって実有は「相待有」と区別される。有部は実有なる概念を更に分類して詳細に説明しているが、今は本質的問題を検討しただけにとどめておく』(P101-2)「かた」と「ありかた」が違うのかどうなのかわからん(いや、「ありかた」もわからんのだけどね)。P268-9なども「ありかた」連発でよくわからん。
『中論』で用いられる論理はプラサンガ(帰謬論法)、『プラサンガとはけっして自説を主張することではなくて、論敵にとって願わしからざる結論を導き出すことなのである』(P130)
『ナーガールジュナは概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのでもない。概念に形而上学的実在性を附与することを否定したのである。』(P135)
『『中論』はけっして従前のダルマの体系を否定し破壊したのではなくて、法を実有と見なす思想を攻撃したのである。概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在と解する傾向を排斥したのである。「であること」essentiaを、より高き領域における「があること」existentiaとみなして実体化することを防いだのである。西洋中世哲学史における類型を引いてくるならば、実念論(realism,begriffs realismus)的な思惟を排斥しているのである』(P143)

実念論プラトーン説一切有部
実念論に対する反対者―プラトーンに対する反対論―ナーガルジュナ学派』(P154)
『一つのものと他のものは互いに相関関係をなして存在するから、もしもその相関関係をとり去るならば、何ら絶対的な、独立なものを認めることはできないというのである。』(P156)「浄と不浄」「父と子」
「一のものを知る人は一切を知る。一切のものを知る人は一のものを知る」(ジャイナ教聖典『アーヤーランガ』)ナーガールジュナはそのような表現をジャイナ教からとりいれた?インドの仏教の話を読むと大体ジャイナ教徒の類似性が出てくるよねぇ、ジャイナ教のこと知らないけど、ちょっと気になってきたなあ。
『中論』、無を説いたのではなく『有を否定して無自性を説いたのである』(P237)
戯論、形而上学的議論を意味する。
『われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、窮極においては一致しているという『般若経』の説を受けついだものであろう(『大品般若』大如品第五十四、大正蔵、八巻、三三五ページ下)如来の本性が世間の本性であり、如来の本性は甲であり、非甲ではないと限定することはできない。如来はあらゆる対立を超越している。したがって本質が無い(無自性である)といわれる。仏教とは如来を独立な存在とし考えて思弁に陥りやすいが、ブッダとは「名のみ」のものであるから、しばしば、夢、幻、鏡の中の像などに譬えられている』(P302)

輪廻・涅槃は同じもの。『われわれの現実生活を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ諸事象の演技している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。』(P297-8)禅のこういう見解はここからか!原始仏教では大乗にどうつながるのかよくわからなかったが、ようやく日本人として身近な仏教である大乗へのつながりがほんの少しわかってきたなあ。