わかる仏教史

わかる仏教史

わかる仏教史

内容(「BOOK」データベースより)
仏教の流れをくっきりと浮き彫りにする一冊。日本仏教の源流を明らかにするために、インド仏教史、中国仏教史、日本仏教史と並べ、また、今日の日本人にとってもなにかと関わりのある南方上座部仏教とチベット仏教の歴史についても説明する。

前から気になっていた本だがようやく読了。難解なところが無く、すごい読みやすかった。
『ゴータマ・ブッダは、苦しみや迷いを起こす心のメカニズムを本当に解体するものは「智慧」であり、それは、徹底的に考え抜くという作業から生まれるのであって、苦行によっては決して生まれないということに気がついたのです』(P22)メカニズムを解体する智慧
弟子をみんな奪われたサンジャヤは、悲憤のあまり血を吐いて死んだといわれますが、じっさいには、そのころすでにタカイしており、教団はサーリプッタが指導していたようです。』(P27)それなら弟子たちがサーリプッタについていった理由もわかるし納得。
『デーヴァダッタは、ゴータマ・ブッダの実際主義の背後に有る、根本的生存欲を滅ぼした我ゆえの透徹した自由、無拘束の境地を読み取れなかったのだといえましょう。』厳格主義者(リゴリスト)デーヴァダッタ
慈悲、元々は修行を速やかに完成させるための手段。
『かなり古くから、八万四千の煩悩という、ちょっとオーバーな言い方がされています。』(P62)煩悩、八万四千か、それなら除夜の鐘の108という数字はどこから来たのだろうか?

『地域単位のサンガのことを現前サンガといい、理念的にただひとつあるとされるサンガを四方サンガといいます。(「四方」の漢訳音写は「招提」です。「唐招提寺」の「招提」はこれです。)』(P67)今まで、唐から招いたから、「唐招提寺」なんだと思っていたわ。

『三昧にいたると自動的に智慧が得られるなど、といいますが、無思考で智慧が得られるなど、考えられません。』(P72)三昧と智慧を同一視したことにより、大きな変質。

経量部。心、非連続の連続『つぎに生じる心のありようは、前の心に植え付けられた種子によってきまるというのです。種子が変化発現(転変)して、つぎの心を成立させるというのです。つぎの心を成立させることを現成といいます。
 あらためて順を追っていいますと、種子が転変してつぎの心を現成し、その心のはたらきがまた新たに種子を熏習し、その種子が、という説明になります。前の種子は、つぎの心が生じたときには消えてなくなっています。』(P85-6)『説一切有部のように、法は常住だとするやっかいな結末におちいることがなく、仏教古来の無常説とも矛盾をきたすことがありません。』(P86)きれいにまとめたなあ。

大乗仏教、自然発生的な大衆運動から芽生えた。
『過去仏の最後である、ゴータマ・ブッダの入滅から未来仏である弥勒仏の出現までには、おそろしく長い時間がかかり、それまでこの世には仏はいないということになっていました。これはやや絶望的な話で、そこで、大衆部系では、すでに今現在、活躍中の仏がいるという考えを打ち出しました。この現在仏説を受け継いで気宇壮大な話に仕立てたのが大乗仏教です。』(P100)たしかに絶望的な時間のあきだ。というかその頃には、太陽が地球を飲み込んでいる頃合いだと思うし(笑)、もしその頃まで人類がいたら弥勒仏信仰高まっていそうだ(笑)

極楽往生は最終目標ではなく、最良の環境のなかで阿弥陀仏の教えのもと、修行に専心して仏になることだということです。極楽往生は、迷いと苦しみの輪廻の世界から涅槃に足る最短コースの抜け道なのです。』(P114)修行の場。

『『法華経』も、般若経典と同じように、みずからを受持することがいかに功徳となるかを執拗に説いています。また、法華の行者は、あらゆるところで迫害を受けるであろうが、それに耐えれば耐えるほど功徳はいや増しするともいいます。』(P86)殉教者的なものを感じる。
『さらに、『法華経』は、土くれの仏像を作ることでも大きな功徳になることを強調していますが、一方で、最高の仏への供養は、あたかも祭りで犠牲に供えられる家畜のように、みずからの身を焼くこと(焼身供養)だともいっており、いささかファナスティックな側面も見せております。』(P117)僧侶が焼身自殺とかいうのを見たことがあったけど、なんで?といつも疑問に思っていたが、こういう思想があるからなのね。

中観『すべてのものごとは、固定的で普遍の本体を欠く(無自性)のであり、したがって中身が空っぽ、空である』(P122)

チベット仏教というのは、インドの後期大乗仏教を、きわめて忠実に継承した宗教としてスタートを切ったのです。』(P132)

玄装三蔵、今日残されている漢訳仏典の六分の一を訳す!!

憲法十七条、家臣の義務しか説かれておらず、権力者の義務が説かれていない。

親鸞、『もう救われ終わっているのだ、あるがままがそのまま絶対他力なのだという考えは、ならば煩悩、欲望のおもむくままに、どんな悪いことをしてもかまわないのだ、という考えに直結します。これを「造悪論」といいます。関東の信者の中からは、この造悪論に走る人がたくさん出てきました。結局、親鸞はこの造悪論を根底からくつがえすことはできなかったようです。』(P217)そら、そうなるだろ。