ふしぎなキリスト教

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

内容説明
キリスト教がわからないと、現代日本社会もわからない――。

エスは神なのか、人なのか。
GODと日本人の神様は何が違うか?
どうして現代世界はキリスト教由来の文明がスタンダードになっているのか?
知っているつもりがじつは謎だらけ……
日本を代表する二人の社会学者が徹底対論!


正確さ(厳密さ)が欠けている?とかなんとかで毀誉褒貶が激しいようだが、キリスト教入門系の本としては、読みやすく面白いらしいので読んでみた。
『自分自身が否定し、乗り越えるべき先行宗教を、自分自身の内部に保存しているような世界宗教は、キリスト教以外にはありません。』(P15)
『Godを信じるのは、安全保障のためなんです。』(P23)そういう側面もある程度なんだろうが、信じる理由が「安全保障のため」と言われると、ちょっとビクッてくるよね(笑)
ヴェーバーは、偶像崇拝をしないユダヤ人に、こんな皮肉を言っている。何故、ヤハウェの偶像がないのか?それは技術水準が低くて、偶像がつくれなかったから。偶像崇拝がいけないと言うのは、負け惜しみなんですね。』(P28-9)冗談だろうけど、もし、そうなら面白い理由だ。
ユダ王国を攻めるネブカドネザルの軍隊は、勝手に侵略してきたわけではない。』『ヤハウェは国連なので、最初からお前だけを守る気はないぞ、というわけです。むしろ、お前らユダヤ人は悪いことをしたから経済制裁・軍事制裁を浴びているんだぞ、という話にすり替わっている。』『こういうことにしてまで信仰を保つなんて、ユダヤ人はちょっとお人よしなのではないかとさえ思えます』(P39)確かに、そこまでして信仰するのは何故だろ。まあ、侵略された世代ではなく、その後の世代において合理化されたんだろうけど、ここらのことは。
『もしも日本がどこかの国に占領されて、みながニューヨークみたいなところに拉致されるとする。百年たっても子孫が、日本人のままでいるにはどうしたらいいか。それには、日本人の風俗習慣を、なるべくたくさん列挙する。そして法律にしてしまえばいいんです。』(P43)それが、ユダヤ教の律法。
「原罪」はキリスト教の考えかた。ユダヤにはないんかな?イスラムはどうなんだろ(キリスト教の後だからあっても不思議ではないが)。
一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を見るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点から見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。』(P55)三人称が日本語では完全には翻訳できない、とかいう話をどっかで聞いたことがあるような気がするが、それはこれが理由なのかな?
サタン、「反対者」「妨害者」という意味で、元々は悪魔ではない。
『どうしてエデンの園に禁断の樹の実がつくられたのか。これは、不可解で、解けない神学上の疑問ではないか、と思います。』(P80)考えたことなかったけど、確かに不思議。
エデンの園で『人間の目の前を、ヤハウェが歩き回っている。それなら、だいたい人間と同じ大きさだったことになります。』(P94)なんかGodって巨大なイメージがあったわ。
『世界は、Godが創造したあと、規則正しく自然法則にしたがって動いている。誰も、自然法則を一ミリでも動かすことはできない。その意味で、世界はすみずみまで合理的である。でも必要があれば、たとえば預言者預言者であることを人びとに示す必要があれば、Godは自然法則を一時停止することができる。これが、奇跡です。世界が自然法則にしたがって合理的に動いていると考えるからこそ、奇跡の観念が成り立つ。』(P117)面白い。
マルクス主義、宗教的だというのはどこかで見たことがあったがどこが、というのは読んだことはなかったので興味深かった。
『進化論は、サルが人間に進化したと考える。天皇も人間である。それなら、天皇の祖先をさかのぼると、サルになる。いっぽう現人神(天照大神)の子孫が天皇だと考える。天皇の祖先をさかのぼると、神になる。サル→天皇、神→天皇は、形式論理からいって、矛盾するはず。日本人はその両方を信じている、というのです。アメリカ軍の将校でなくたって、これは理解できない』(P124)確かに矛盾しているなあ、とこれを読んだときは思ったが、ネアンデルタール人と現生人類の混血のような形で混じっている、ということもできるし、あるいは、人と混血しすぎたため、これは神のものと断言できる因子が完全に抜け落ちてしまった、または神が祖先と言うことは人間として下界に下りていて、元から人間の形として降りてきているのだから神と断言できる要素はどんな科学的な検証でも見つけられない(あるいは人間として云々がなくとも、神の子孫と証明できるものは肉体的、物質的なものではない)だったり、みたいにどうとでも理屈はつけられるんじゃない?

キリスト、自分のことさん人称的に呼ぶときは「人の子」、一般に「人の子」というのは救世主(メシア)の意味で解釈される。
旧約聖書では、目上の人間や尊敬する師を「わが父」と呼ぶ例がある。『想像ですが、イエスはこの意味でヤハウェに「わが父」と呼びかけたのではなかろうか。』(P170)個人的には納得の行く、説得力のある説明だ。

救われるかは、「業」(人間の行為)の問題ではない。救われるかどうかは、神の「恩恵」の問題だから、人間に発言権はない。これは結構吃驚する話だな。