明治天皇 1

明治天皇〈1〉 (新潮文庫)

明治天皇〈1〉 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
1852(嘉永5)年9月22日、京都御所を取り巻く御苑の北の端、板塀で仕切られた屋敷内の質素な家で産声が上がった。皇子祐宮、のちの明治天皇の誕生である。厳しい攘夷主義者の父・孝明天皇崩御により、皇子は14歳で第122代天皇に即位。開国・維新の動乱に立ち向かうことになる。極東の小国を勃興へと導き、欧米列強に比肩する近代国家に押し上げた果断な指導者の実像に迫る記念碑的大作。

明治時代全体を扱った本を読んでみたかったので、読んでみたが、この巻ではまだ幕末。朝廷の儀式の描写については、特に理解しようとして読んではなかったので(例えば、小説の人物の外見の細かい描写のごとくなんとなくで読み流していたので)、読みやすかった。実際、いくら読んでも苦にならない文章。キーンさんの文章、すごく好きかも(といっても訳文であるが)。

天皇や公家の貧乏は特に通俗歴史家によって誇張して描かれることが多く、天皇も生き延びるためには斯く斯くの思い切った手段に訴えたものである、などという話がまことしやかに伝えられた。実情は、同じく贅沢三昧に誇張されて描かれがちな当時の大名の生活水準から見ても、かなりいい暮らしをしていた。』(P36)これはかなり意外だわ。
『近世歴代の天皇は、幽閉された国事犯のようなものだったと言っても誇張にはならない。』(P37)いつ聞いても、200年以上何代もそんな状態にあったというのは、史実であったと知っていなければ、うそ臭く感じるような出来事だ。

参内始『額の生え際に白粉で横一線を描き、黛を点じた。その下に、臙脂を用いて「犬」という字を書いた』(P59)現代から見ると、ちょっと奇習みたいに感じられるちゃう。

孝明天皇が痘瘡に罹ったという事実そのものに異議を唱える学者は一人もいない。不可解なのは、孝明天皇の痘瘡の原因がすでに全快して恐らく感染性もないと思われる少年とされていることである。重ねて不可解なのは、宮廷で痘瘡に感染したのが、孝明天皇一人だけだったということである。天皇が藤丸と接触する機会はわずかであったと思われるし、逆に藤丸と頻繁に接触していたと思われる人物の中からは、誰一人発病者が出ていない。』(P258)そう考えるとかなり不思議なことだな、孝明天皇の死亡。毒殺説が出てくる理由がはじめてわかったよ。

天皇は明らかに、いわゆる知識人ではなかった。天皇を知るたちの思い出話からは、むしろ次の論語の一説が思い起こされる。「剛毅朴訥仁に近し」。意志が強く、容易に屈することなく、無欲で、飾りけのないこと、これすなわち、孔子の理想である仁に近い、というのである。』(P467)あ、なるほど、儒教的な君主(だか人物だか)というわけね、明治天皇

明治天皇行幸の時、輿に乗りたがる、ってそれ自分からかよ!形式的にそうしなければならないもので、「明治天皇を語る」では、苦痛だが耐えていたというイメージだったのに。