竜馬がゆく 4

新装版 竜馬がゆく (4) (文春文庫)

新装版 竜馬がゆく (4) (文春文庫)


内容(「BOOK」データベースより)
志士たちで船隊を操り、大いに交易をやり、時いたらば倒幕のための海軍にする―竜馬の志士活動の発想は奇異であり、ホラ吹きといわれた。世の中はそんな竜馬の迂遠さを嘲うように騒然としている。反動の時代―長州の没落、薩摩の保守化、土佐の勤王政権も瓦解した。が、竜馬はついに一隻の軍艦を手に入れたのであった。

竜馬と山南のエピソードなど、こうした感じで新撰組を描かれたほうが、個人的には「燃えよ剣」よりもそうしたほうが魅力的に見える(「燃えよ剣」を読んだのがかなり前で、その上読んだ当時日本史の知識がまるでなかったから、今読めば違うかもしれないが)。

勝個人のことでごっちゃになっていると言うよりも、全体として御家人と旗本が同じ意味で書かれてんなあ。

そういえば、この「竜馬がゆく」は司馬さんの小説にしては珍しく(単に今まで読んだのがそういう色が薄いものばかりだっただけかもしれないが)色恋の話がかなり。

武智が投獄されたという報を聞いた後の、狼狽した竜馬と陸奥の会話が笑える、小便(笑)。

山内容堂『自称名君の容堂は、幕末でもっともはなばなしい暗君だったといえるかもしれない。』(P270)個人としては優れているんだろうが、「君主」としてはそうかもね。以前から、四賢侯(だっけ?)とか言われているけど、入れられているのがなんか疑問だったが、容堂に詳しくなかったのでずっと判断保留にしていたが、小説ではあるがこうした言葉がでてきたので、ようやく個人的にもはっきりした感じだ。

土佐の農民『「農民は、幕府、大名、上士の私民ではない」というのだ。「皇民である」というのである。皇というのは当時あたらしくうまれた社会科学的な用語というべきで、国民という現代語がないために同義に使われている。とまれこの天保年間にこんな反封建的国民思想が、土佐の草深い田舎の庄屋どものあいだにうまれていた、というのは歴史の奇跡であろう。』(P304)確かに幕末でもない天保年間から、土佐では民間にそういう思想があったというのは不思議な感じだ。

竜馬、感情的には長州びいき。そうだったんだ(と小説で「だったんだ」と個人の感情に踏み入ったところまで確定した事実のように、読んだ側で扱うのはよくないとはわかっているが、でも、この程度なら書簡とかでわかっていることなのかな)。