原始仏典

原始仏典 (ちくま学芸文庫)

原始仏典 (ちくま学芸文庫)


内容(「BOOK」データベースより)
仏教経典を片端から読破するのはあまりに大変だが、重要な教えだけでも知りたい―本書は、そうした切実な希望にこたえるものである。なかでも、釈尊の教えをもっとも忠実に伝えるとされる、「スッタニパータ」「サンユッタニカーャ」「大パリニッバーナ経」など、原始仏教の経典の数々。それらを、多くの原典訳でも知られる仏教思想学の大家が、これ以上なく平明な注釈で解く。テレビ・ラジオ連続講義を中心に歴史的・体系的にまとめたシリーズから、『原始仏典1釈尊の生涯』『原始仏典2人生の指針』をあわせた一冊。

この本は、色々な仏典(でいいんだよね?)を簡単に紹介してあって、読むのが面白かったわ。個人的には、現代語訳でも仏典を丸々1冊読むのって大変そうだし、含まれている意味を読み取ることを酷く不得手としているということを自覚したということもあって、余計に手が伸びないジャンルだが、こうして抜粋とちょっとした解説やコメントがセットになって進んでいくこの構成は読みやすい上興味深く読めた。

ゴータマ・ブッダ、『かれは、諸宗教に通ずる普遍的な真理を生かすという立場をめざしていました。これが、後の世によびかけるひとつの特徴的な思想となったのです。』(P26)

『サンユッタ・ニカーヤ』、『「蛇」という名のエピソード、すなわち、蛇の形をして悪魔が釈尊を誘惑しようとしたが失敗したと言う話』(P97)聖書のエデンの話で蛇の話しあった、誘惑者として蛇が、仏教でも一エピソードとしてあるのは面白い。蛇、誘惑者としてのイメージは普遍的なものなのかな、もし蛇の生態とかでそうしたイメージを作った行動があるのだったらぜひ知りたいのだが。

マーラを訳すために、悪魔の「魔」という漢字を作ったというのははじめて知った(か、わすれていたか)。

『「怠ることなく」というのは、心が乱れたりすることがないようによく気をつけて、という意味です。』(P166)これは「仏弟子の告白」の六二六の「怠ることなく」だけの意味なのか、原始仏典に出てくる「怠ることなく」はすべてこういう意味なのかどっちだろ?

「最後の旅」の『ヴァッジ人が都市の内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物をはいすることがない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、滅亡はないであろう』(P127)は、仏教が祖先崇拝を取り入れるようになった時に根拠となった文言。

『何びとも他人を欺いてはならない。たとえどこにあっても他人を軽んじてはならない。』(P201)「ブッダのことば」のこの部分好きだわ。

『もしも愚者が自分が愚であると知れば、すなわち賢者である。愚者であってしかもみずから賢者だと思うものこそ愚者に名づけられる。』(P236)「真理のことば」、頓珍漢なこと言っちゃって、後で後悔するときに最近いつもこのことばが思い浮かぶよ。

たとい他人にとっていかに大事であろうとも、自分ではない他人の目的の故に、自分のつとめを捨て去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。(P250-1)「真理のことば」自己犠牲への戒め。

『乏しき中からわかち与えたならば、
 千倍にも等しいと量られる。』(P271)「サンユッタ・ニカーヤ」、金持ちだけが徳を積むことができるようなシステムだとばかり、今まで勘違いしていたが、そういったことに対する救済のような語句もちゃんとあるんだ、とこれを読んではじめて知った。

アショーカ王、「岩石詔勅」、『〔すべての宗派の〕本質の増大は多種の方法によって起こるけれども、その根本となるものは、言語をつつしむこと、すなわち不適当の機会において専ら自己の宗派を称揚し、またはほかの宗派を非難してはならぬこと、或いは、それぞれの機会において温和なるべきことである。』(P375)すべての宗教に対して支援したというのは、今まで意味が分からなかったが、実際にこうして読んでみると、それほど意味不明なことでもないことがようやくわかった。