親鸞 上

親鸞(上) (講談社文庫)

親鸞(上) (講談社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
馬糞の辻で行われる競べ牛を見に行った幼き日の親鸞。怪牛に突き殺されそうになった彼は、浄寛と名乗る河原の聖に助けられる。それ以後、彼はツブテの弥七や法螺房弁才などの河原者たちの暮らしに惹かれていく。「わたしには『放埒の血』が流れているのか?」その畏れを秘めながら、少年は比叡山へ向かう。


仏教系の人は名前は知っていても、いまいちどういうキャラクターや思想なのかよく理解できないことが多いから、仏教系の人を主役にした小説を読もうかと考えていたので、とりあえずこれを読む。親鸞は有名だから、ある程度の知識はあるが(でも、親鸞だけを扱った著作は読んだことないけど)、というか元は空海最澄を主役とした作品を読もうとしていたが、講談社の100冊に入っていたから、とりあえず琉球処分の上巻と一緒につい衝動買いしてしまったけど。下巻はまだ読めて(というか購入してすら(感想執筆(執筆という漢字を書くのはなんか面映いな)時))いないけど。名前は見たことあるけど、五木さんの小説を読むのはこの本がはじめてだ。

まだこの巻では親鸞幼少期のエピソードが多くて、法然に弟子入りする以前のことだから捜索されたエピソードがほとんどだ。親鸞は元々史料が少ない人だということもあるだろうが。本に挟みこまれていた小さな広告(?)に、親鸞(激動篇)が発売(単行本で)とあったが、それをみるに続きがあるということは、下巻を読んでもどこまで進むのやら不安になるなあ。

『この杖の柄は人の骨だ』(P14)といわれて、忠範(範宴、親鸞)がさほど驚いたというような描写はないが、ひょっとするとこの時代では、そうした人骨を細工するなんていうグロテスクなことはポピュラーじゃなくとも、眉をひそめる程度のことだったりするのかい?そうした当時の細かな風習というかそのようなものには無知だから、知らないけど。それとも単に、河原坊常寛の異質(異形)性を示す道具立てとして利用しているだけか?

比叡山、たやすく入山できるところではない。それは学生としては?ということかな。でも、堂衆として入っているし堂衆は『名門の出ではない、大きな財力のうしろだてもない』(P172)とあるから、なんで入山が困難なのかがよくわからないな。

後白河、平家に対して弓矢でなく情報を幅広く入手することで勝負しようとしているって、ちょっと過大評価気味だなあ。まあ、主人公が当時の政治に携わるわけでないのだから、そこらのディティールは、そんなに精密じゃなくとも上手くエピソードを作れる設定ならいいのだろうが。

山法師、酒は人目をはばからず飲むのに、女色は絶っているのか?良禅(美少年)を襲おうとしたということは。それとも(男色文化のある)寺暮らし長引くと、男にも普通に欲情するようにでもなるのかね?

『ところがどうじゃ、お山の高僧、学僧たちはいまどんな格好をしておる。キンキラキンの錦織りで、なかには衣の絹の斤量を競いあう風潮もあるとか。』(P338)まあ、単に豪華なものを貰ってきる程度なら、ブッダもわざわざぼろいものでなくとも衣服を寄進されたら着たようだしいいのだろうけど〈いや、ブッダは悟ったからこそ、別に綺麗くても汚くてもいいという感じだったのかな?〉、競い合うともなると流石にな。

女色をしそうになったのを、黒面法師が矢を射って(範宴めがけて)、當麻御前が庇ったからこそ、自分は救われた、「二人に」救われたと感じるのは、普通の人間では考えられないような思考だ。宗教人の思考が普通人の思考と全然違うということをこのエピソードのおかげで、はっきりと感じることができたよ。こうやって小説という形式で読むと、ややもすると、普通人の考えで宗教人である親鸞を理解しかねない危うさをこのエピソードで、正常、普通の考えとは異質の世界にいることをはっきりとわからせてもらえた。