文章読本さん江

文章読本さん江 (ちくま文庫)

文章読本さん江 (ちくま文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
そうそうたる書き手たちがわれこそはと名告りをあげ手を染める…いったいぜんたい「文章読本」はなぜこうも書かれつづけるのか?圧倒的に男のディスクールでもあったこのジャンル百年の歴史の歩みにズバズバと踏み込み、殿方、ごめんあそはせとばかりに、容赦なく、やさしい蹴りを入れる新世紀××批評宣言。

斎藤さんの著作を読むのは「妊娠小説」以来で2冊目。読んだのは図書館で、単行本の方で読んだ。最初の章の、「文章読本」を笑い飛ばす感じの文章は、「妊娠小説」を読んだときも思ったが、こういう本(ジャンル)についての本で、そのジャンルについて笑い飛ばすような文章は、どうも馬鹿にして茶化しているように感じてしまって、個人的には少し読んでいてしんどいかな。「ファンタスティックな挨拶文」のところで、起承転結で要約しているところなんかは素直に笑えたけど。

よく文章を作るときに言われる、「起承転結」が元々は漢詩作法で、現代文や論文には向かないとする意見の人もいる(まあ、それは少数派で、大多数は「起承転結」肯定だということだが)ということに驚いた。しかし、「起承転結」は元々が詩のために考え出されたもので、普通の文章を作るためのものではないということは、かなり虚をつかれたような感じ。いままで、「起承転結」をきっちりつけた文章が書けたためしがないことについて、ちょっと悩んでいたんだが、元々が詩の作法と聞いて少し気が楽になった感じだ。いや、無論はじめから終わりまで一貫性を持った文章(書けたためしがない)を書けるようにしないとダメなのだろうけど。でも、そうした文章が書けるように精進しなければいけないということはわかっていても、個人的に文章に書くような体験(自由な時間は、基本的にいつも本を読んだりネット見たりとかで過ごしているから)とかがないから、難しいなあ。

「III 作文教育の暴走」で扱われている明治以降の文章教育の歴史について書かれている部分は、何も考えずに読んでいても単純に面白い。最後の現代の作文について述べられているところで、良い評価を受けるのが、本を読んで「自己変革」したということが書いてあるもの、というのを見て今回思ったのは、この本の中にも本を読んで「自己変革」をするなんてそうそうあることではないというようなことを書いてあるが、僕自身の経験でも今までの読書で大きな自己変革があったと感じたのは精々一回くらいだもんな、しかもその一回だって自分の意識が大きく変わったということはわかるが、どこが自分の心にふれてどういう作用によって変化したのかが、自分でもまだ理解していないし、きっとまだ文章にかけないような出来事だもんで。「自己変革」が起きて、それを文章で器用に書けるというのは、本当の起きたことだとしたらそれはたいした体験だと思うよ。そうして文章で書けるんならきっと今の僕よりもずっと自分自身の輪郭や内面を把握できていることだと思うから、それ(ある程度固まっている自己の輪郭だったり)が本という外部の作用で大きく変わるとなると、中々すごいことだと。まあ、たぶん、その作文が誇張なのか、作文用のテンプレに沿ったものなのだろうがね。